いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

原始のガラスとは何か。

真の自由は、問題そのものを構成し、それを規定するチカラのなかにある。その覆いをとることは、発見することになる。しかし、問題を設定することは単に発見することではない。それは発明することである。

ベルクソニズム ジルドゥルーズ

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制作の時が来た。個展に向けて準備をはじめた。正確に言えば、ある特定の作品をカタチにしなくても、いつでも制作している。制作は生活のなかにある。日々の暮らしのなかで作品は育まれている。その種は常にまかれている。どの芽が花を咲かせるのか、どの花を摘み取るのか、それを選ぶことこそが制作でもある。

身の回りのモノからアートを生み出すことをテーマにしている。生きるための芸術、生活芸術と名付けた。つまり自ら問題を発明した。

次の個展では、自然にあるものを利用した制作を計画している。土を採取して土器を作ることはできるようになった。さらにそれを推し進めて、釉を作ろうとしている。釉とは土のなかにあるガラス質のものが溶け出すことで、太古の人間は焚き火の跡からそれをみつけた、かもしれない。キラキラ光る痕跡を発見して、それを利用することを企んだ。

釉薬は買うこともできる。けれどもそれを自然の中に求めることで問題を発明できる。つまり釉を発見したときを再現させる。その問いからこういうお題が浮かんでくる。ガラスは古来何からできたのだろうか。調べてみると、

1世紀古代ローマ博物学プリニウス の「自然博物誌」に「天然ソーダを扱う商人た ちが食事の支度のために大鍋を支えるのに適した石が見つからなかったために積み荷の中から取り出したソーダの塊の上に載せたところ、ソーダの塊が熱せられ浜の砂と十分に混じった時見たことのない半透明な液が筋となって流れ出た」という逸話が有る。

砂のなかにガラスの原材料であるシリカが入っていて砂をよく観察するとたしかにキラキラ光っている。ソーダ灰とは、海藻を燃やした灰にして作ることができる。

土器から進化して、自然から採取して組み合わせた釉を使ってみようと思う。そうすることで表現を単純化する。もっと言えば複雑化するこの社会のなかに原始的な表現を復活させる。そうすることで、表現を無垢なものへと結晶化させたい。

(土を焼いた)この種の焼き物は歴史のはじめに現れるもので、技術的にはまだ初歩のものといえますが、ただし美しさまで初歩だとは中々申されません。カタチに雄大なものがあるのみならず、醜いものが殆どないのは、原始の暮らしには、吾々のように濁ったものがないからでありましょう。

焼き物の本 柳宗悦

ベルクソン(Henri Bergson, 1859-1941)は、1907年に著した『創造的進化』において、人間の知性の本質を創造性であるとの考えを示し、それまで唱えられていたホモ・サピエンス(知性人)に換えて、ホモ・ファーベル(Homo faber、工作人)との定義を与えている。

 乱暴に要約すると、「人間は、寒さを凌ぐことを目的として衣服を創ったり、雨露を凌いで生活を営む目的で住居を創ったり、食材を焼くことや暖を採ることを目的として火を創ったりする事から、目的に従って道具を制作するものであり、要するに、サピエンス(知性)とは、その根原的な歩みと思われる点から考察するならば、人為的なものをつくる能力、とくに道具をつくるための道具をつくる能力であり、またかかる製作を無限に変化させる能力である」と解釈できる。

つくる。思考する。そして試行する。