いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

文章を書くのは現在地を把握すること

f:id:norioishiwata:20221027115653j:image

時間は過ぎていく。今は瞬間で過去になる。今は過去になることを常に継続している。ぼくも常に過去になる。生きているから今を過去に送りつつ常に新しくなる。

朝起きて妻と話しながら、桜の樹を掘り出すことにした。スコップと鍬を軽トラックに積んでキャンプ場予定地に行った。キャンプ予定地の木は整地され伐採される運命。たぶん。それを心配した澄子さんに桜の移植を頼まれた。週末にはバスツアーの見学者たちに桜の植樹体験プログラムもあって、先週まではユンボとユニックを持っている緑川さんに依頼するつもりだったが、現場を下見して自分たちでやれると判断した。

自分でやれば、それを経験できる。自分でやれば待つこともなく、予定を誰かに合わせる必要もない。その経験はまるごと自分のものになる。

桜の樹を2本根っこから抜いた。根は神経のように大地に張り巡らされている。2年前は桜の木をどう取り扱ってよいのか分からなかったけど、今は少しは理解できるようになった。これが経験というものだ。

午後には地域の老人サロンで、ガーランドづくりをやった。この旗は北茨城市に移住して地域の人たちとコミュニケーションするために考案したアートプログラムだった。予想外に子供からお年寄りまでが参加できるツールになった。旗に絵を描けば、それがそのまま飾られてギャラリーになる。

夜は、北茨城で予定しているイベントの看板づくり。これは依頼されたもので、流木を拾ってきてLamp Lightsという文字を作っている。

12月には個展が控えていて、11月末には野外イベントも予定している。どれも、ずいぶん長いこと取り組んできた活動の成果だから手抜きできない。

夕方に炭焼きの師匠から電話があった。今季の炭焼きの山を下見に行く約束をした。実は炭をつくるよりも、薪を売った方がお金になる。現状は、手間をかけて薪を炭にして時間と体力を費やして、金銭的な価値を下げている。けれども、ぼくは炭焼きがやりたかった訳で、最初からお金が目的ではない。炭焼きという行為は人間の原始の営みに根を張っている。土と火と水を操る原始の技術がここに眠っている。ぼくはゆっくりと原始から進化をしている。炭焼きは土器づくりへ発展し、やがて陶器へ向かう。

自分が何をしているのか知るために言葉に書き表す。言葉の向こう側を忘れないように読書をする。いまはベルクソンを読んでいる。「時間と自由」、「創造的進化」あとドゥルーズベルクソン論「ベルクソニズム」。

久しぶりに理解できない文章を読んでいる。日本語なのに何が書いてあるのか、何を指しているのか分からない。言葉が先にある訳ではなく、何かの現象や体験があって、それに言葉が与えられている。だから、言葉はそのものを指し示さない。例えば、はじめて体験することの中身をぼくたちは知ることはできない。でもその体験が言語化されれば、その体験を説明されるて理解したような気になってしまう。言葉はまるで口裏を合わせるように後から意味を一致させるだけのこともある。

ぼくは1日の活動の何が価値あるものなのか計ることができない。どれも必然的に起きていて、そのなかの何かがぼくを予期しなかった未来へと繋いでくれる。生きるとは漠然と全体が生命活動になっていて、そのうちのいくつかが、まったく違う価値へと接続されて、予想外の方向へ転がっていく。例えばぼくが今日したことの何がアートで、どれが作品になるのか、ヒットするのか、お金になるのか、そんなことは問題ではなく、ぼくが何かを作ろうとしている、その活動の中から、いくつかが世間でいうところの芸術というコンセプトにリンクして、なるほど確かにこれはアートだと理解されるだけで、全体は漠然とした生きるためにしている日々の活動なのだ。

そんな活動を続けていく、ある日に、手のなかに作品が握られていたり、作品が目の前に転がっていたり、頭のなかに鮮明に作品のイメージが浮きあがっていたりする。そうやって作品が生まれてくる限りぼくは、純粋にそのカタチを取り出してみたい。