いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

日記は地図。現在地を記す。

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日記とは地図だ。変わりゆく社会のなかで自分の現在地を確認するためのツール。もしくは人生のあらすじ。この先に展開するシナリオのために。テーマは生きるための芸術。生きるとは何か。芸術とは何か。

生きることはすべての人に通じる課題。流されるのではなく、ときには杭になり、漕いで逆らうために感じたことを日記にする。

ぼくは芸術家になった。芸術家と言っても様々だ。職業や肩書では見えてこないそれぞれの実情がある。ぼくは生きることを芸術にしているから、制度としての芸術、教育された芸術、ギャラリーや美術館、業界から遠くなっていくように思う。それでいい。既存の芸術という枠組みの外に芸術を連れ出そうとしている。なぜか。

少し遠回りになるけど説明してみたい。表現をすること。その根底にあるものを。それを取り出してみたい。記述してみたい。掴んでみたい。モノをつくることとは何か。つくるとは。そのモノ自体を捉えようとする、この行為こそが思索すること。哲学。考えること。なぜかと問うこと。しかしコトバの思考だけでは根底には到達できない。つくる行為の根源はそのもっと奥にある。その奥へ到達する鍵は何か。

絵を描くこと。彫刻すること。インスタレーション、小説、メディア・アート、映像、どれにしても手段でしかない。絵や彫刻をリアルに作ること。絵が上手いとか立体が本物そっくりだとか、そういう造形はコトバで思考することに似ている。カタチを捉える。コトバで表す。見えているカタチやコトバのもっと奥、表現はそのもっと奥から立ち上がる。そこからやってくる創造、それらが子供の描く絵や太古の壁画や文字や彫刻やオブジェに現れている。そこに鍵がある。そこに通じたい。その先の道を照らしたい欲求がある。

芸術とは探究だ。態度としては科学者と同じ。未だないものを探している。ぼくが探究するのは、太古から脈々と現れては消える創造の源泉だ。それは学校で教わることでもないし、ジャンルでもない。だからこそ探究する。だからこそテーマになる。

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現在地としては、山間部の集落に生活を作った。そこにあるモノ、あったモノを探究する過程で壊れた炭窯をみつけた。窯を再生して繰り返す3年目。炭焼きという行為の中に人間の営みの源流をみつけた。土と水と火と木。それらを駆使してエネルギーを生み出す技術。起源は古く30万年前とされている。実用されていた80年前には、炭は生活のエネルギーだった。だとすると、遥か何万年に亘り人類は山から木を伐って炭や薪を作ってきた。それら運動。そのなかにあるモノ。伐る、割る、運ぶ、担ぐ、投げる、捏ねる、砕く。

身体の動かし方、それをするための道具。技術は補助するための工夫から生まれた。妻は炭焼きのとき、足りないチカラを身の周りのモノを利用して克服しようとする。できる者には生まれない発想。

劣ることから幾つものモノが、創作技術が生み出された。当然のことながら陶芸の窯より炭窯の方が歴史が古い。土を焼くと固まるという発見は火と土と水の関係に注目した結果、発見されたと推測できる。器はその過程で生まれた。灰が釉薬になる。貝を天日干しして砕いて胡粉をつくる。動物の皮や髄を煮て膠をつくる。それらすべては生きるためにしてきたこと、つまり「つくる」は食べることから派生したとイメージできる。生きるために食べる。その行為の過程から「つくる」はアートへと分かれた。

この10年の課題は製作に没頭できる環境をつくることだった。生活そのものをつくる。自分が生きるに適した環境を作ることになった。環境をつくることは、それ自体が製作物を生み出すことだった。それらは生きるために必要なモノ。つくることが目的ではなく、日常の行為の過程に制作があって、その一連の流れによって生み出される。意図しない造形。それが美しさに近づくのではないか、という予感。柳宗悦の民藝を感じる。進むべき道は未踏だから勘で進むしかない。

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今年取り組んだアースワークス・シリーズを進化させて、採取した粘土を炭窯で焼き、海の崖の砂岩を釉薬にして描く土器。100%自然のモノで作られる作品であり太古へと回帰する。炭焼きでの薪作りから彫刻が派生する。材料も自ら調達する。この環境でなければ生まれない作品たち。それ自体にオリジナリティが宿る。

今日、土器が薪を模倣し、薪が岩を模倣したら、と閃いた。