いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

社会と自然のバランスのなかで。その気持ちいいところ。

過ぎていく時間のなか、やりたいことをカタチにしていくと、そのカタチは種になってやがて芽を出す。それを繰り返すことで、その芽は成長し花を咲かせる。

社会では経済活動が最優先される。お金にならないことを誰も評価しない。そもそも自分自身の価値をお金で計ることすらできない。だから経済的評価に繋がる肩書きや地位、記号、場所を人は欲する。

生きるという活動は社会のなかに根を張ることができない。生きるという活動は社会の外側へとはみ出していこうとする。社会はそれを許さない。流れる水を汚しそれは飲めないと忠告する。大地を埋めたて食べ物を自給させない。火を奪い代わりに契約による供給を提案する。社会には土壌がない。

土壌とは時間だ。社会とは誰でもない。どこにもない。社会という漠然とした全体のなかに自分の時間は流れていない。自分の時間でしたことが結果として社会に流出していく。自分の時間が川上であり社会を川下にするべきだ。いずれにしても人間は社会と関係なしに生きることはできない。

社会活動もまた人間に不可欠な要素でもある。だからどう社会と関わっていくのかその接続の仕方自体を検証する必要がある。生活の仕方をデザインするとか生活を編集すると言い換えることもできる。

生きていくために必要なもの。どうやって獲得するのか。学校では教えてくれない。教えてくれるのは、競争に勝ってその報酬を手にするやり方。競争すれば勝つときもあれば負けるときもある。ずっと勝ち続けることはない。仮に勝ったとして、報酬を手にしたとして、いつまでそのゲームを続ければいいのか。

食べ物はお金で買う以外にも手に入れる手段がある。大地に働きかければ、種を蒔けば、芽を出し実る。人間はむかしからそうしてきた。かなり太古の時代から、その糧を管理してきた。働かざる者、働かされる者に分かれてきた。

社会は人間を管理しようとする。その仕組みを維持するために。だから人間が本来持っていた野生のチカラを社会の外に持ち出すことで、ぼくたちはある程度の自由を手にすることができる。管理の外側に。管理の外側とは? 社会の対義語は自然。自然は人間を管理しない。むしろすべてを混沌に返す。この混沌にはリズムがある。人間には把握し切れないリズム。流れ。その流れに身を委ねてみると、たしかに生きていける余地が見える。すべてを自然に委ねることもできるけれど、それもまた依存かもしれない。社会と自然のバランスのなかで程よいグラデーションをみつけることができないだろうか。

芝桜で景観を作っている内田さんを紹介してもらって見学に行った。20年前、家の前の耕作放棄地に芝桜を植えた。最初は内田さんのお母さんがはじめた。毎年草刈りするよりは、芝桜でグランドカバーできないだろうか。お母さんの取り組みを息子である内田さんが引き継いで50歳から手入れをはじめた。それから20年試行錯誤してきた芝桜は増えて大地を覆った。隣り近所の人も同じように芝桜をやって結果的に見渡す限り芝桜が広がる景観になった。この芝桜は話題になって観に来る人も多く観光スポットにもなった。

この芝桜について、お金を取るべきだ、苗を売ってお金にした方がいい、募金箱を設置したらどうか、とお金にする方法を提案されるらしい。

けれども内田さんは「お金にするとすべて意味が変わってしまう。そう思うんです。わたしは家の前に芝桜が広がっていればいいんです。それが生きる楽しみです。苗を欲しい人がいれば分ける。ただそれでいいんですよ」と言った。

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