いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

次の展開へ。

次の展開へと移り変わる時期にいる。そう感じている。10年前にライフスタイルをつくると芸術家を目指して、今現在は、芸術家として暮らしている。それがどう評価されるのかは別の話として、とりあえず夢は叶い、それをして日々を生きている。

明日、明後日と講義の仕事で別々の内容で2日に亘って話をする。ひとつは、コラージュという技術を軸にアート活動の話をする。もうひとつは、地方に拠点をつくって活動することについて話す。

これまで生活そのものをアートにするという取り組みをしてきた。そのなかから作品を生み出してきた。ひとつの技術を繰り返しやるよりも、偶然に遭遇した技術をその都度利用して制作してきた。だから、どれも技術的には優れていない。優れてはいないのだけれど、それでも評価できる何かが作品に宿ったとき、その作品はよくできていると感じるときがある。いつまで見られるようなカタチをつくると惚れ惚れする。自己満足なのかもしれない。でも、まずは自分が納得して、それを誰かに見せたとき100人にひとりでも、そこから何かを感じてくれれば、その作品は確かに自分の傑作のひとつに数えることができる。

そんなことでいいのか。とも思う。でもその答えは自分が出すことではない。だから、また新たな表現の模索に向かっていく。

ぼくは画家ではない。絵を描いてはいない。絵を作っている。この説明ほど明確なことはない。ぼくは何かのカタチを作っている。それは確かだ。

生活を作った。これはとても重要なことで、表現者がどこからやってきて、何処へいくのか、自分自身も含めて、手掛けた作品についても理解していることは当然の義務だ。この時代に。何処でも売っているモノを買ってきて、組み合わせてやがてそのモノがどうなっていくのか、その循環に自覚がないなら、それはモノづくりと向き合っているとは言えない。何しろ時代はこれから22世紀に向かっていく。今までと同じ態度とやり方で何を表現したと宣言できるのか。

ランドスケープアートに取り組んでいる。北茨城市里山の景観をつくっている。大地と自然を相手にしている。これほど充実した制作はない。空、空気、木々、土、植物、それらの合奏を指揮するようだ。何もアートっぽいところはない。ただの景色。しかし、それこそが美しいと感じるなら、それで充分だ。ぼくたち夫婦は黒子でいい。優れていなくても構わない。むしろすぐに理解されるよりも、誰にも気付かれないレベルで進行して、あるときに成果が開花する。それまでの間、ぼくは表現活動を継続できればいい。表現活動を継続するとは、それをやりたいようにできる環境があるということ。食べ物があって、寒さをしのぐ家があって、悩みにならない程度のお金があって、それだけの収入になる仕事があって、そういう環境があれば、表現は次から次へと生まれてくる。その環境がとりあえず、いまはここにある。

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森に木を見に行った。いま暮らしている家の周りは小さな山に囲まれていて、小さいから名前もない。けれどもずっと広がっている。そこには森がある。森。木々が溢れるこのフィールドで何かできそうだ。

表現が生まれるままに解放したい。ギャラリーや美術館に展示するためにとかは考えたくない。それは結果だ。収蔵しなければならないほどの何かを作ればそういう結果になる。だからと言って、アイディアをそこに収めてしまったらアートじゃない。

やりたいことは、自然が相手だからすぐには結果を返してくれない。ひとつずつ、一手ずつ制作を重ねて、自分のアートを極めていきたい。それを確認するためにこれを書いているんだろう。

日常のなかで忘れている技術

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海を見ると波があって、あれなら乗れそうだとか、あれは大きいとか判断する。実際に海に入ってみると、波の大きさは、遠くから見たのとはまた違っていて、ときには聳える壁のようにも感じることがある。

できないことをできるようにする、という行為には段階があって、そこに「技術」がある。海で波に乗るサーフィンにも技術がある。

波を波として眺めてしまうと、それは大きく感じてしまうこともあるけれど、波というコトバだけでは表せない、その複合的な運動と同化することができれば、波のサイズを感じることなく波の一部になることができる。

できないことに取り組むことで、できるようになることを体験する。その体験のなかで技術というものを獲得していく。

 

友達が薪割りをしている写真をSNSに投稿していた。薪を斧で叩き割っているようだ。そして「難しい」とコメントしていた。その友達はぼくが投稿した薪棚の写真を見て「全部斧で割ったの?」と質問してきた。

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ぼくも薪割りのやり方を知らなかった。木には年輪があって、割れやすい方向がある。枝や節があるところは割れにくい。チェンソーで切れ目を入れて、楔を打ち込んで木を割る方法を炭窯の師匠に教えてもらった。この薪割りは、チェンソーの動力、木に打ち込んだ楔、重力で落ちてくる斧、それらのエネルギーや性質の組み合わせで木を割ることができる。使う力は斧を振り上げる力だけだ。

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草刈りをして景観をつくる活動をしている。はじめる前、どうやって桜の苗を育てていけばいいのか不安だった。しかし始まってしまえば、桜は育っていくし、草が絡まって折られてしまうこもあるけれど、そうならないように対策をする知識が身についていく。どれだけ草が伸びると草刈り作業の効率が悪くなるのか、そんな計算もできるようになった。初めて草刈り機を触って恐る恐る草を刈っていた初期に比べたら、ここにも何かしらか技術の蓄積がある。

 

景色を作って、それを絵にするという循環になって、来年の春に向けて、耕作放棄の草刈りをして準備をしている。現実をつくり、その現実を絵にする。それは世界そのものを創造することでもある。「世界を創造する」とはまるで大袈裟なようだけれど、人間は常に目の前の世界を作っている。けれども、メディアの向こう側ばかりを気にしていると、目の前の世界から自分が不在になって、ほんらい創造できるはずの世界は、何もされないまま流されて過ぎ去っていく。それは生きる時間そのものを捨てていることでもある。

 

いま咲いているコスモスの花の絵を描く準備をしている。木材を加工してパネル、額、下絵をつくる。ぼくが木工をやって、妻が絵を描く。妻の色の塗り方や調色には、どこかから学んだ訳でもない、独自に発達したやり方がある。こうして夫婦で作品を一緒につくるということもまた日々の積み重ねで技術が蓄積されていく。

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チフミは畑をやっていて、毎日その畑から採れたての、ナス、オクラ、サンドマメ、ししとう、だいこんの葉っぱを食べている。その料理は、身の回りにある野菜を調理した名前のない食べ物で、炒めたり煮たり、茹でたり、味付けはその時々で変わっていく。お米は近所のひとが作ったのを分けてくれるので、それをいつも食べている。味噌もそうだ。そうやって作られる食事が美味しいということにも、生活をつくるという取り組みの積み重ねがある。

 

生きるための技術は、日常のなかに埋没していて、当たり前に存在しているそのことをつい忘れてしまいがちになる。ぼくにとっての当たり前は、誰かにとっては特別なことでもあるし、どうでもよかったりもする。誰かの当たり前がぼくにとっての特別なこともある。そうした日々の些細なことの素晴らしさをどうしたらいつも輝かせておけるのだろうか、とこれを書きながら考えている。たぶん、生きるということに関して必要な物事は既に揃っているのに、どういう訳か社会の方が、それではダメだ、もっともっとと要求してくるのだと思う。その社会という存在がすべてを複雑化させている。だからぼくは本を読んでその複雑なものを理解しようとする。

 

ぼくたち夫婦の生きることに関しては、とても単純化されてるのだけれど、それでも日常のなかにいると、その実は単純なことが見えなくなって、上手く波に乗れないように、社会に翻弄されてしまう。だから、いつも基本に戻るために文章を書いている。生活という生きるために必要な活動を自分の暮らしのなかに取り戻したとき、毎日の生活のなかにリズムが生まれる。生活とは自然の営みを活用することで、やるほどにシンプルになっていく。その流れに身を任せて生きていけばそれでいい、そんな気持ちを維持できないのだろうか。やってみようと思う。

活動/仕事/制作/労働/お金

お金の使い方について妻と意見が食い違って、結果、自分が一か月間「買い物をしない」ということになった。妻は買い物するから生活には困らない。面白いことに「しない」を選択すると「する」ことと徹底的に向き合うことになる。

例えばムスリムにはラマダンという習慣があって、断食をして飢えた人や平等のへの共感を育む。

お金を使わないことは、使うことの意味を浮き彫りにしてくれる。そうなることを予期したのか、7000円するドイツの思想家ハンナ・アーレントの本「活動的生」を先月末に買った。今月はもう本を買えないので、この一冊を徹底的に読むことになった。これも"less is more"の好例になった。

アーレントのこの本は1959年に出版されている。本書は人間が生きるためにしている、労働、仕事、活動、制作を巧みに分類する。労働とは自然に働きかけ食べ物を手に入れること。仕事は、生きるためのお金を獲得するために。活動とは、その枠を超えてやらなければならないこと。制作とは、消費されないものを残すこと、読みながらそう解釈した。

この本は、ぼくが目指す「生きるための芸術」や「生活芸術」という活動を再定義してくれた。例えば、ギリシャ時代は、生活に関する一切をしないことが奴隷ではないことの証だった。生活に関する一切をしないために奴隷が存在した。また肉体労働もそういう仕事だった。その何千年も前の習慣が今にも残っていて、現代社会では無意識のうちにそうした労働を避けようとする。人はそもそも生活という生命維持活動をアウトソーシングする方向に向かっているのだ。だから炭焼きも過酷で差別されるような仕事だったのだと理解できる。

ぼくが目指している生活の芸術などということはデフォルトで社会構造の外にあるのだ。けれども例外はあって、日本には生活を芸術にする嗜好がかつてあった。千利休によって極められた「茶道」はまさに生活の芸術だった。それは岡倉天心茶の本にも記されている。だからこの道が、あらゆる領域から逸脱して、お金にもならない、汗を流してやるようなことになっているのにも納得した。先人たちの表現が切り拓いてきたその光を、その僅かな抜け道を繋ぎ合わせて新しい意味をつくることに、思想という表現があり、それをやる意義についても強く自覚できた。これは書くという表現として、ぼくのなかに息づいている。

アーレントはこうも書いている。人間は、コトバにすることでしかこの世界を理解することができない。自分の世界を記述することで、自分の世界を見ることができる、と。誰かが書いたモノを目にすることは、自分以外の世界を見ているに過ぎない。しかし「自分の世界」という領域はどんどん社会に侵食されている。ぼくたちは自分のコトバで書かなければ、誰かのコトバに覆い尽くされてしまう。それは広大な海のうえで、自分の位置を見失なうようなことだ。

ぼくは、自分の世界を記録するためにココに文章を書いている。ぼくはそれをしなければならないと感じている。なぜなら、それこそが制作することに他ならないからだ。

自分の表現は、絵を描くだけでなく、アーレントが言うように、まさに「活動」と言うことができる。そこには肉体労働も生活づくりも含まれている。それがアフリカで家を建てた経験から始まったのも納得できる。つまり社会全体が奴隷的な身分を避けて、そうした労働から逃れようとするなか、ぼくは積極的にそれらを取り戻そうとしている。そうすることで「生きる」という活動自体を近代化、社会化から解放することができる。何千年もの人間の営みを捉え直す作業と言うこともできる。

強制的な労働から解放された草刈りは、自然と向き合う禅的な時間を与えてくれる。目の前の草をひたすらに刈っていく作業のなか思考が展開していく。今日は、草刈りをして楮(こうぞ)をみつけた。この後数年の企みとして紙をつくりたいと考えている。この土地で楮を栽培していたと聞いたからだ。けれどもどれが楮なのか、判別できなかった。図鑑を眺めていても、実物を見つけることはできないが、現場では、それを発見することができる。フィールドはまさに現場なのだ。

 

草刈りをしながら考えた。身体を動かしなが表現することこそが、音楽が辿ってきた道なのだ。思考は突然にアイディアを点灯させる。ぼくの表現はいつも、ロック、ブルース、さらにはブラック・カルチャーと呼ばれる歴史へと接続する。そうした視点からぼくは世界を眺めている。

今月はお金を使わない月間でありながら、前から約束していた例外として、妻と映画「サマーオブソウル」を10月1日に観にいった。アメリカには、奴隷として連れて来られた人々がいた。その人たちは過酷な労働のなか、日々の楽しみとして音楽を演奏した。アフリカ由来のその音楽は、アメリカは移民の国だから、さまざまな文化が混ざって独自に発達した。それは現在のロックやヒップホップ、レゲエ、さまざまな音楽のルーツとなっている。

なぜその話をするかと言えば、それら音楽が持つある種の眼差し、ぼくの活動の根底にはそれがある。それら音楽のコトバ、詩は虐げられる人々の魂だった。ときには隠喩としてその苦悩を歌った。どうしてなのか、ぼくの目線はいつもそこにある。生きるという現場からぼくの表現は生まれる。

アーレントの引用に戻ると、作品を制作するのは消費されないモノを残すことなのだ。消費されないとは、使い尽くされないモノであること。つまり、作品はアンタッチャブルな存在として、できる限り残り続けるモノであることを目指している。だからぼくは、活動をコトバにして、本にまとめて残そうとしている。絵画作品をつくるのもそうだ。形式は何であれ、残るものを制作している。「売れる/売れない」を超えた、時代から削り落としたオブジェを作っている。

アーレントのこの本のタイトルが「活動的生」で、活動することについて徹底的に思考していながら、それをズバリ的確に表すタイトルをコトバにできていないところも共感する。因みに「人間の条件」というアーレントが英語で書いた原稿を翻訳した版もある。こちらの方が有名らしいが、「活動的生」は彼女の母語ドイツ語で書き直した版からの翻訳で、比較はしてないけれど「活動的生」は読み尽くせない、つまり消費できないほど深くコトバが刻まれている。

 

ぼくの仕事のひとつに、北茨城市で「芸術によるまちづくり」という取り組みがある。草刈りをして景観をつくる「桃源郷づくり」もそうだけれど、例えば移住を検討する人にこの町の魅力を伝えるような役割もある。昨日は、リモートでイベント会場と繋がって、移住に興味ある人に説明する仕事をした。そのなかで「芸術によるまちづくりをしていて、市民の人たちも芸術を楽しんでいる」と話した。そう言ってから具体的に何をして楽しんでいるのかと考えた。妻がすかさず陶芸などの講座があるんです、と付け加えた。

草刈りをしながら、そのことを思い出して、市民の人が芸術を楽しむとは、市民の人が講座の先生になったり、生徒になったり、またはそのためにこのまちを訪れる、滞在するということが「芸術のまち」ということになるのではないか、と閃いた。

これは2018年にボストンで滞在制作したときに、プロビンスタウンという人口2000人ほどの小さなまちが、夏には芸術のまちとして何万人もが滞在するリゾート地に膨れ上がることを知ったときからずっと考えていたことだった。

陶芸だけでなく、家を改修する技術や、釣りやカヌーや、サーフィンや、生きるための技術すべてを対象にすれば、それは一過性の観光とは違うまちの未来がある。これは企画書にしておきたい。企画書は代理店で働いたときに学んだ技術で、計画を伝えるのに役に立っている。それが実行される/されないに関わらず、計画のアイディアを共有するツールになる。自分の活動を、絵を描くとか彫刻をつくるとかの表現だけではなく、社会そのものに働きかける取り組みも含むものにしていきたい。

ぼく自身が自分のしていることを理解してしまっては、それはアートではないと考えている。言い方を変えれば、常に自然を残しておかなければならない。自然は意識しない。答えと直通することは不自然にあたる。それはコラージュという技術を常に魔法のようにこっそりと使い続けることを意味している。コラージュとは異なる素材を組み合わせ予想外の画面をつくることで、例えば雑誌を切り抜き、その裏側や使うつもりではなかった端切れを使って、自分の意図を超越していくこと、だから積極的にフレームを超えて活動していくことが、ありえないような「生きるための芸術」を結果的に表現することになる。いまぼくは、これまでに捉えることができなかった全貌を額に収めつつある。矛盾するけれど、フレームを超えて、異なるパースペクティブをまとめてフレームに収め直したとき、そこに新たな意味の地平を開くことができる。閉じるのではなく開くからこそ先へと続いていく。

追加:すべては作品のため。制作するためにあらゆることをしている。2021.10.5

日々の出来事がパズルのピースのようにハマって見えた転換点

9月に久しぶりの個展をやった。春頃から準備して作品を作ってそれらを並べて展示して、これまでのクリエイティブを放出した。日々の取り組みが作品に反映されるから、個展のたびに展示内容は変わっていく。展示のために制作している訳ではないから、展示が決まってから制作は展示に向けて集中していく。展示は転換点になる。

展示が終わって、すぐに手をつけなければならないプロジェクトがあった。ひとつは友人で音楽家の松坂大佑のアルバムデザイン。アルバムの表紙、ライナーノーツ、限定盤までを手掛けた。

松坂くんとのコラボレーションは彼の主催するフェスOff-Toneのフライヤーデザインから始まっている。毎回彼のキーワードから作品をつくって、それをフライヤーにした。松坂家には、開催した数だけのぼくと妻の作品が飾ってある。それでもこうやって仕事をオファーしてくるのは有り難い。ぼくはぼくを知ってくれている人に生かされている。

表紙絵、20ページの冊子、紹介原稿、木製パネルと額にシルクスクリーン印刷した限定5個のボックスを仕上げた。あとは修正作業が少しあるだけになった。

それでやっと随分待たせてしまったプロジェクトに取り掛かることができた。幼稚園の壁画を描く仕事だ。これも数ヶ月前に依頼されていたが9月の終わりにならないと、手がつけられないと予想できていたから、そういうスケジュールにしていた。やると返事したものの、何メートルもある壁に絵を描くのははじめてだし、どうやってクリアしようか考えてもいた。

やったことがないことは経験者に相談するに限る。頭の中に高円寺で壁画プロジェクトを手掛けるプロデューサーの大黒くんのことがイメージできていた。期日が迫って電話で相談した。技術指導もしくはコンサルタントとして予算に組み込むつもりでいた。ところが大黒くんは「連絡くれてありがとう。いつも気にしていたんだ」と言ってくれた。「壁画制作に必要なノウハウを教えてほしい。仕事として依頼するので」と言うと

「ぼくが知っていることが役に立つならお金は要らない。なんなら物々交換の方がいいな。モノじゃなくても技術とか何か交換しようよ。しなくてもいいんだ。最近は、100万円以下の仕事はそうしているんだ。その方がお互い楽だから」そう話す大黒くんが、とんでもない偉人に感じてしまった。大黒くんは、ぼくが知りたかったことをすべて教えてくれ、何か分からないことあればいつでも連絡して、と言った。

新しい経済に対する態度を表明していると思った。仕事でお金を稼ぐのであれば、お金が取れそうな項目に金額をつけて、見積の値段を上げていく。タダで手に入っても値段に入れる。そういう仕事の仕方を代理店で働いたとき教えられた。けれども大黒くんのやり方は、まったく違う。ちょっと驚いたし、自分も少し取り入れてみたいと思った。だから、幼稚園の壁画はペンキ代の実費プラス10万円の作業代にした。

幼稚園の壁の絵の題材の動物に関してリサーチしているとき、地球の環境変化について"tipping point"というコトバが連呼されて「転換点」が頭にインプットされた。

桃源郷づくりでお世話になっている人に本を出版した報告に行った。絵も見てもらおうと、景色を作って絵にした2枚を持参した。本を渡しに行ったのだけれど、絵を見せると上手くなったな、と褒めてくれた。蓮の絵を見て、俺も死ぬときはこういう風にお迎えが来るのかもな、と言った。絵をいろんな角度から眺めて、結局2枚とも買ってくれた。展示では売れなくて妻チフミが自信がなくなるなあ、と言っていた絵だった。

絵はひとつしかないから、それを気に入ってくれるひとりと巡り会ればいい。そういう巡り合わせの奇跡を起こす絵がいい絵なんだと思った。

日々の出来事がパズルのピースのようにハマって展開していく。直観に従って動く。それが予想外の展開を当たり前のように起こしてくれる。

生活の基盤は作ったから、作品をもう少し売れるようにしたいと考えていた。考えることと行動が一致すると、人生は展開していくのかもしれない。

ぼくたち夫婦にとって作品をつくることは、絵にしろオブジェにしろ、空想世界に封じ込めるのではなく、現実の世界を作ってその一部を作品にすることだ。だから作品は現実の一部でもある。その作品が売れれば現実をつくり続けることができる。そうやって目の前の世界を美しくしている。

幼稚園の壁画制作がはじまるまで、少し時間ができたので、壁画プロジェクトの作品も制作してそれも売ってみたい。そうやって現実と作品がリンクしていることを知ってもらいたい。檻之汰鷲とは、そういう作家だということを。

 

本を出版した。流通も出版社もなし。自分で本をつくること。

本を出版した。これはひとつの結果であり始まりでもある。常に自分のテーマになっている「BEFORE AFTER THE END」の循環。

ぼくは本が好きで、そもそも本をつくることから自分のアート活動は始まった。スケッチブックにコラージュして文章を書いて、ページをめくり物語が進んでいく。

文章を初めてまとめて書いたのは大学の卒論だった。美大ではないけれど人文学部芸術学科で多少の実技と、そのほかは自分の興味について自由にレポートを書かせてくれる学部だった。大学のとき、ゼミの先生にヴォルテールの小説「カンディード」を薦められた。この本はマイベスト10の上位にいつもある。卒論はレーモン・ルーセルについて書いた。

27歳のとき、交通事故をきっかけに本気で創作活動をすると決意して取り組み始めたのが本作りだった。最初期はスケッチブックのスクラップブック。やがてパソコンで文章を書くようになって、ペインティングやコラージュをフォトショップイラストレーターを駆使してインデザインでレイアウトするようになった。そうして2011年にグラフィックノベルをつくった。ところが、そんな本を本気で取り扱ってくれる出版社もなかった。シュルレアリスムの研究者の巌谷國士に当時の展示のチラシを大学宛に郵送したら会期が終わってから電話をくれ「面白いよ」と励ましてくれた。グラフィックノベルは送ったかどうか覚えてない。結局は自費で印刷した。すごく大きな決断だった。もちろん流通会社と取引もできなくて、いろいろ営業した結果、BEAMSのバイヤーさんが興味を持ってくれ、BEAMS ARTで販売してくれた。

2013年に本格的にアート活動するため海外を旅して、滞在制作をして、その記録をまとめた本を作った。またもや出版社を探したけれど、芸術の本なのか紀行文なのか分類できないから売れない、芸術家なら文章は書かないほうがいい、実績がない人の本は出版できない、とかの回答で、結局2015年に自費出版した。しかしグラフィックノベルのときにはなかったSNSのおかげで多少は売ることができた。さらに買ってくれた人のひとりが出版社で、幸いにもその会社から出版してもらることになった。

もうそれだけ本は売れると思った。本は一般的に、著者が書いた原稿を編集者がまとめ、出版社から流通会社を経て書店に並ぶ。膨大な数の書籍が日々出版されている。だから、知名度のない著者の本を書店で手に取るのは、砂浜で一粒の砂をみつけるほどの確率だ。だから出版社は、目立たせるために広告を出したり、お金を払って本屋さんで平積みにしてもらったりする。結果から言うと、出版社から出した本は、それなりに売れたけど、会社が潤うほどは売れなかった。それでも出版社は二冊目も出してくれた。

本は出版してそれで終わりではない。読者の手に届けるという大きな使命がある。流通会社は本屋さんに本を流通させてくれる。そのためには2000部以上を印刷することになる。それが全部売れるなら願ったり叶ったりだけれど、売れなければ返本されてしまうのだ。

この本を出版するという流れにいつも違和感があった。ひとつは自分に抜きん出た才能がないということでもある。だから出版社に選ばれない。20年前だったらそれでゲームオーバーだった。けれども今は自分で本をつくることができる。出版社から出すメリットはたくさん売ってもらえることだ。けれどもたくさん売れないのなら出版社から出す必要もない。

ボブディランのコトバを思い出す。
「1万人に向かって歌うより50人の前で歌った方が伝わる」

たくさん売れないから諦めるべきなのだろうか。本としての存在理由がないのだろうか。手を掛けてつくった野菜を売るように、顔の見える範囲で本を売り始めて、それが積み重なってやがて経済的にも潤うようになれば、それでいいのではないか。時間をかけて本を売るということを再構築できるんじゃないだろうか。

そういう理由で出版レーベルをつくった。地風海(ちふうみ)。妻ちふみの名前とサーフィンをイメージした漢字を当てた。流通会社も使わないことにした。こうして新しい本との付き合い方がはじまった。SNSで宣伝して、時には直接、手売りしている。ちょうど9月あたまに個展をやったのでそのタイミングで販売した。いまのところ80冊ぐらい売れただろうか。この人たちは我が出版部門の大切なはじめてのお客さんだ。次の作戦として、知り合いのメディアに連絡してインタビューを2本してもらうことになった。それでこの文章を書いている。改めてなぜ本をつくるのか考えるために。

それから小さな書店に行って直接本を卸そうと考えている。出版社も流通もないから著者と本屋のダイレクトだから本屋にとっての利益率もいい。

なぜ本を売るのか。自問自答しておく。表現には源泉がある。奔流するイメージ、その流れがはじまるところ。それがオリジナリティだ。本というモノはぼくの原点だ。それをつくりたくて表現をはじめた。小説家になりたいということでも編集者でもデザインでもなく本をつくりたかった。この全体性に自分のオリジナリティがある。この源流へと遡行するのも自分の性分だ。原始性。技術以前の衝動。必要が技術や論理を先行するとき。それを模索するために、いろいろな技術に触れようとするのかもしれない。これは今書きながら考えたことだ。きっとまだ深層がある。

本には「伝える」という機能がある。伝える必要性から本は印刷されるようになった。ぼくには伝えたいことがあるらしい。本にするほど。伝えるということの本質を明らかにするエピソードで今日は終わりにする。マホメットだ。イスラム教の創設者として知られるマホメットは商人だった。ある日、洞窟へいくと声が聞こえて驚いて家へ帰って奥さんに洞窟で悪魔に出会ったと話した。すると奥さんはどうしてそれが悪魔だと判断できるのか、もう一度話を聞いた方がいいといわれマホメットは洞窟に戻る。話を聞くとそれは神様からのメッセージだった。マホメットはその教えを伝えなければと、妻に話し、親せきに話し、町の人に話し、ときには疎んじられ、ときには争いにもなって、それでも少しづつ伝えていった。それが今のイスラム教だ。その教えを今に伝える本がコーランだ。

そうだ。
ぼくの本は「廃墟と荒地の楽園」
一言で説明すると「競争しないで生きる」
ここで売ってます。

https://artsales.theshop.jp/items/51443198

それが好きだからやるというだけのこと。

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楽園だった。

朝起きて6時には海に入っていた。夏は終わり秋が始まろうとしていた。北茨城の平日の海はほとんど誰もいない。ぼくはサーフボードに跨って海の上にいた。

あったはずの波が弱くなって、曇っていた空の隙間から太陽が出てきて、光の筋が海に降り注いだ。すると、周りの魚たちが海面に姿を見せるようにあちこちで飛び跳ねた。そのまましばらくこの絶景を楽しんだ。要するに誰もいない海の上でぼうっとした。けれども、しばらく待っても波が来ないので、一旦海から出ることにした。

砂浜に上がると、ちょうど来たクルマから誰かが手を振っている。見上げると、この海で知り合った友達だった。彼は、サーフィンを中心に生活していて、つまり波に合わせてライフスタイルをつくっている。旅にもいつでも出れるようにして、仕事はあまりやらない。

ドレッドでボブマーリーみたいな彼を仮にBと呼ぼう。Bは当然ながら、波のよい状態のときに決まって現れる。ぼくみたいな初心者にすれば、彼が現れたということは、波がよくなる印でもあった。

「ノリオさん、どうですか今日は?」

「1時間前くらいから入ってて。波がなくなってきたから、場所を変えようと思って」

「でもすぐよくなりますよ、ほら」

見ると波が出てきた。

「あそこを見てください。砂が溜まったんだな。ウネリが来てる。あそこいいですね。入りましょう」

Bはそうやってサーフィンについて教えてくれる。Bが準備している間に、ぼくは先にそのポイントに向かった。

はじめてウネリがリズムになっているのが見えた。バリでサーフィンを教えてくれたツトムが言っていたことを思い出した。

「サーフィンは音楽なんだ。波がリズムになっててさ、波に乗るってことは波とセッションすることなんだ」

しかしリズムが見えても、なかなか波に乗るタイミングを掴めない。実は最近、海で小さな怪我ばかりしていた。とにかく突っ込んでは波に飲まれて、足をボードにぶつけて負傷していた。少し怖くなっていた。だから、サーフィンの解説動画を見て、波のタイミングを掴む学習をしておいた。

大縄跳びに入るような感じで、連なるウネリのひとつにタイミングを合わせて波に乗ろうとする。

そうしているうちにBが海に入ってきた。ぼくの近くに来て、やってきた波にさっと乗った。いとも簡単に。そのおかげでタイミングが分かった。上手い人と海に入ると必ず上達する。

何度か失敗するうちにタイミングが合ってきた。そして遂に今までで一番上手く波に乗ることができた。それからはBと海の上でお喋りをして、波が来たら乗ってを繰り返した。

どういう巡り合わせか、この2年くらいサーファーに出会うようになった。そのすべての人はサーフィンでお金を稼いでいない。だからサーフィンを続けるためにそれぞれのライフスタイルを作っている。それぞれがそれぞれのやり方でサーフィンと人生を楽しんでいる。そんな好きな物事との付き合い方を知らなかった。音楽だったら、売れなかったらお金を稼げなかったらやめてしまう人が多い。アートでもそうだ。でもサーフィンは違う。

Bはさっき書いたように、サーフィンをする自由のために余計な仕事はしない。お金はたくさんないけれど、それでも好きなことに没頭できる自由な環境をつくっている。

高校の同級生ツトムは、バリ島でバリの女性と結婚してゲストハウスを経営している。もちろんサーフィンを好きなだけやるために、そういう暮らしをつくっている。

ツトムを通じて知り合った何店もの飲食店を経営する社長のJさんも、多忙ながらも日本とバリの二拠点生活をつくって、サーフィンを楽しんでいる。

ぼくが最近サーフィンが面白いと感じるのは、そういう側面が心地よいからだ。

絵を描くことは、それ自体は楽しむ行為だけれど「アート」という枠に嵌めると、値段を上げて価値をつくることや、有名になることとか、そういう側面も見えてくる。それはそれで確かに存在するから、そのゲームに参加するけれど、サーフィンのような純粋に楽しむ気持ちを持っていたい。その姿勢をインストールするためにサーフィンをやっているのかもしれない。

もっとも海が好きだから、できるだけ長い間、海に入りたいだけなのかもしれない。今年の冬はついに舟をつくりたい。アイルランドのボートカラックを。そして海の景色を作品にしたい。

表現/活動

展示の最終日になった。絵を描いて、オブジェを作って、それらを並べて鑑賞してもらう。それらを買ってもらう。地方だけれど老舗ギャラリーということもあって、ギャラリーで展示するという流れを経験できた。

そのおかげで、自分の表現の場所を再確認できた。ぼくの表現はギャラリーで展示することだけではない。それも大切な部分だけれど、ぼくの表現は絵画の向こう側、その作品が生まれてくる過程にある。これは自分が「活動」呼ぶ行動の中にある。活動自体は何も生まないかもしれないが、確かにそこには表現が発生する現場がある。

ぼくの表現には「現場」が必要だ。つまり現場があれば「表現」が生まれる。現場と表現を結ぶバイパスを展示と呼ぶことができるのかもしれない。本にまとめている「生きるための芸術」シリーズもバイパスのひとつに数えられる。ここでバイパスと呼んだものが展示では、インスタレーションなのかもしれない。

現場と表現とバイパスをどう取り扱っていくのか。そこに自分が開拓するフィールドがある。

現場は、自然とか、田舎とか、都市とか、社会とか、いろんなところに見出すことができる。その現場に何かしから関与して、そこに与えた影響を表現として可視化することが自分の作品だとも解釈できる。それを並べて鑑賞してもらうことが展示になる。

その意味では、技術的な探究を志向するよりも、現場で発掘したものを表現に変換さえできれば、技術は研ぎ澄ます必要もない。むしろ、無垢なままの方が、その技術の原点に触れることもできる。その原点を明らかにすることが「生きるための芸術」と呼ぶ活動そのものである。

その際に「リサーチ」と呼ばれる調査、比較検討はサンプリングとしての役割を果たす。現場での発掘作業は、直感と発見によるものだから、そのもの自体は既にオリジナルとして存在する。それを表現に変換するとき、様々な技術的な事例が参考となる。

ただし「絵を描く」(→ぼくら夫婦の場合は「絵をつくる」が的確に思う)ことは、日々の暮らしの中に織り込まれるその作業自体に、現場から表現へと変換する際に要求される技術が詰まっている。だから「絵をつくる」という活動は、自分の表現活動の根幹でもある。美しさを凝縮していく作業には、また別に語るほど豊かな奥深さがある。

だからと言って「絵を描く」ことに縛られる必要もない。思い出すのは、エジプトで滞在制作したとき。食べ物の伝播をテーマにストリートでおにぎりと作り方のレシピを配布した。食べ物が不足する地域で、食べ物のレパートリーとして食卓にオニギリが並んだら、豊かさを描くことができると考えた。

その意味で「絵をつくる」とは「絵を描く」とイコールではない。「絵をつくる」は場面をつくるとでもある。写真に収める、映像にする。それも自分たちの表現手段になる。

 

我々はどこからやってきて、何処へいくのか。ゴーギャンがその傑作のタイトルで呼びかけるメッセージは、ぼく自身のテーマになっている。

ゴーギャンが、実は多くの文章を残していると知ってその本を取り寄せた。

ゴーギャンは、言葉を書くことで、世間の理解が及ばなくても、自分だけは何をしているのか理解してその道を進んでいた。最近思うのは、表現をコトバに変換したからこそ、歴史に残るのではないのか。本人かやらなくても誰かが、それをするから記録として残る。歴史に残してやろう、という野望よりは、人間というものを少しでも明らかにしてみたい。明らかにするというよりは裸にしたい。裸にしてやるというポルノとは別のエロスなのかもしれない。

 

文章を書くことは、ブログとかPV数とか、そんなことはどうでもよくて、その時々の自分の思考を削り出すためにしている。その時々の思考とは、ほんとうにその時々にしか存在しなくて、その時々に刻まなければ、その思考は波に攫われる砂のように消えてしまう。自分の表現が日々の泡と消えてしまう前に、ぼくはここに記録している。