いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

例えば「ライフスタイルをつくる」と「ライフスタイルを消費する」の違いについて。

昨日は雨だったので一日中制作に没頭できた。作りかけの作品の額装を仕上げたり、注文されているピアノの塗装を進めた。同時にパピエマシェ(張子)の動物、タヌキ、シマウマ、シロクロキツネザルの作業も進めた。妻と2人で制作しているから分担して、朝から晩まで仕事ができる。起きてから寝るまで制作している。そんな暮らしがしたかった。それができている喜びは毎朝目覚めるとそこにある。

今日は朝7時から草刈りをした。妻と相談して毎日2時間やることにしている。集落全体を草刈りするから、計画的にやらないと追いつかない。一日中やってしまうとほかのことに手を付けられない。やらされているわけではないから、尚スケジュール管理が必要になる。草だけ刈っててもアート活動にならないし、とも考えたけど、「芸」の字の由来は「くさぎる」と読んで草を刈ることを意味したそうだ。

まるで微生物だ。大地のうえ、青い空、草の緑。それしか見えない。ただ目の前の仕事をする。それが草刈り。ひとり没頭する。集中する。いろんなことを考える。瞑想の時間でもある。

あっという間に8時を過ぎて、炭焼きがあるから予定より早めに草刈りを終える。それでも今日の目標まで草を刈れた。

炭焼きの師匠が現れ窯に火を入れる。今日は火入れ。炭焼きと草刈りを合わせるとランドスケープづくりになる。美容師のように大地を刈り込んで整えて、木を切って薪にして炭に焼く。この仕事のおかげで山に入るし集落の余計な木を伐ることができる。これらの技術がぼくたち夫婦の制作の軸になっている。

景色をつくる。労働だ。身体を動かす。これほど単純な働き方はない。自然に働きかける仕事はやっただけ返答してくれる。人間だけでなく生き物すべてに等しく接する。この原点回帰した働き方が、ぼくらの創作に影響を与えている。草や木や土、水や火。それらのエレメントがぼくらに創造力、眼差し、技術、素材、表現に必要なモノを届けてくれる。

枝分かれし過ぎて、何をしているのか見失なうときがある。だから枝を遡って幹へと辿り直す、その原点へ。根っこへ。小さな種だったもの。見えていない考えや目指しているものを再確認する。生き方を作っている。というのも、自分という現象のすべてを捉えることができない。やっていることにパースペクティブがあり過ぎる。つまりパース。遠近感があり透視図が必要だ。自分が進んでいく方向を見定めるための地図。辿り直してみると自分という現象から派生するあらゆることを作るに変換しているのが分かった。つくるの反対はこわす。ではない。作るの反対は消費。

例えば「ライフスタイルをつくる」と「ライフスタイルを消費する」について考えてみる。

ぼくは作品をつくる。だから職業は芸術家と名乗っている。しかしアートのためにやってない。例えばギャラリーで展示するとか美術館に収蔵されるとか、それは結果であって目的じゃない。もちろんその結果を望んではいる。目的は生きることだ。ぼくがよりよく生きるには、モノを作るしかなかった。作品をつくるという行為を通じて自分自身が作られていく。だから同じことを繰り返さない。今まで見たことのないモノを目指している。未知に踏み出すことで、常に新しい自分になれる。それはアートに限らずどんな仕事でも創意工夫すれば新しくなる。失敗も新しさに含まれる。

人間は不完全だ。いつの時代も。だから問い続ける。何千年も。文章なり絵画、彫刻、物語、映画、音楽、なんでもいい。ぼくは問いを持つ表現に魅了される。逆に、それが売れるから、という理由だけで作られているなら、それは商品だ。できるだけ商品から離れたい。逃げる。やつらは欲望を喚起するから。喉が渇いたようにぼくは欲する。新しいモノをより良いモノを。しかし新しいモノは古いモノに勝るのか。より良いとは何か。問うべきだ。なぜ? 抵抗しろ。流されるな。どうして? なぜ? 問わなければ、欲望に飲み込まれ、ぼくは次から次へと欲しいモノで頭とスケジュールを未来を予算を真っ黒に埋め尽くしてしまう。時間もお金も想像の負債で溢れてしまう。ちょっと待って。溺れる前に。抵抗しろ。その手段が「つくる」ことだ。なんでもいい。つくれ。濁流から逃げるために。

今年結婚20年目だから

妻に「何かお祝いする?」と聞いた。

妻「どんなお祝いするの?」

僕「ホテルに泊まって美味しい料理を食べたり」

妻「美味しい料理って何?」

僕「フランス料理とかお寿司しとか」

妻「うーん。別に嬉しくない。家でいつもの食事が美味しい。そんなことより傑作をつくって欲しい。これはスゴいってやつ」

「つくる」しか選択肢がない。よかった。

ぼくは生き方や作品をあらゆる経験を総動員して組み立てている。説明書のないプラモデルみたいに。パーツは草刈りのなかや炭焼きのなか、妻の言葉のなか、誰かの声、書きながら気づくこと、いろんなところに隠れている。たまたま作っていたシロクロキツネザルが教えてくれることもある。

作り続ければ積み重なって大地となりやがて隆起して孤島になる。それはイエ、ニワ、ヘヤ、社会から距離を保つ一時的な独立空間。つまり自分が生きる環境になる。その生態系を作っている。それが生活芸術という哲学だ。実践すれば社会にけものみちのような抜け道をつくる。

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