いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活芸術家の1日

午前中に草刈りをした。7時半くらいからはじめて気づいたら11時半だった。4時間やった。そんなに没頭できることも最近では少ない。いつもスマホが傍にあってSNSを見たり写真を撮ったり。だから草刈りのときはスマホを持たない。

草刈りは瞑想だ。ただ草を刈るだけ。他に気を遣うことがない。自走式の草刈りを操作するだけ。だからその間はずっと浮かんでは消えるまま考える時間にしている。

昨日、80歳のお年寄りと世間話をして、安倍元首相の暗殺から統一教会の話題になった。するとお年寄りは「ここでその話をしてもな、さあ帰るとするか」と立ち上がって去っていった。カッコいい立ち居振る舞いだと思った。そのことを妻に話すと「話に気をつけた方がいい」と注意された。どうしてそんなことを言われるのかとムッとしてしまった。妻は心配しているのだ。

けれどもぼくは、とくに今は政治と宗教はとても重要なトピックだと思う。どういう訳なのかぼくたちはむかしから政治と宗教の話を避けるように教えられてきた。

しかし今現在。それでいいとは思えない。政治はこれからどういう社会にしていくか、という未来の舵を取る仕組みだ。国民主権の民主主義である限り、ぼくたちのために議論されて社会を舵取りしていく。だったらなぜ避ける必要があるのか。対立を生むから? しかし対立を生む要素がそこにあるならもっと向き合うべきではないか。対立があるということは、その溝を埋めるコトバが足りないからだ。だったら思考を費やして新しい地平をコトバで切り拓くべきだ。

宗教団体の被害者が、その恨みを晴らすべく元首相を殺した。単なる狂人の兇行なのか。仮にそうだったとしても、その結果、政治と宗教の癒着が浮かび上がるのだとしたら、それを検証する必要がある。まるで質の悪いディストピア映画みたいじゃないか今の日本。日本はどうしてしまったのだろうか。

草を刈っていると、こうやって心に沈澱するいろんなことが浮かび上がってくる。これはそのひとつ。けれども逃れることも難しい。思わず、その考えに溺れていく。そんなときの対処法をぼくは知っている。かつて座禅をしたときにお坊さんが教えてくれた。「座っていると、いろいろな考えが浮かんできます。それをただ観るのです。ただ観るとは、駅のホームで電車が通り過ぎるのを眺めるようなこと。電車に乗らないように浮かんでくる想いに乗らないこと」

教えのおかげで浮かんでくる社会の問題を見送った。草を刈るうちにまた次の思いが湧いてくる。バントのライブの構成について。もっと曲や歌をよくする方法について。こういうことなら、そのアイディアをそのまま実行すればいい。そうやってバントは活動していく。

こうして4時間、草刈りを終えて、昼ごはんを食べて、午後は舟づくり。今の課題は木を曲げること。インターネットで調べたやり方で木を蒸す装置を作った。中に木材を入れて煮て蒸して約1時間ほど。ちょうど炭焼きの師匠が現れる。「何をしてるんだ?」「木を曲げようと思って煮ています」「どれどれ。それでは木のサイズと装置が合ってないな。ドラム缶で煮るくらいやらないと」

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失敗は失敗だったけれど、これぐらいのカーブなら板を切って作った方が確実ということになった。つまり失敗から次の展開が生まれた。いつもそうだ。ぼくは正解には向かっていない。とりあえず行動して、それがきっかけで起きたことへと転がっていく。それが創作だ。

続きは明日やることにして海へ向かった。ここ数日は頼まれた絵の景色を採取しに海へ行っている。海は毎日違う。ということはみんな毎日違う。確かイスラームのコトバに「1日とは砂漠の砂つぶひとつひとつで、今日も明日もそれぞれ独立している」という教えがあった。

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今日は曇りで、景色の採取はイマイチだったけれど、それはそれでいい絵なのかもしれない。

日が暮れて家に帰って風呂を沸かして妻が作ってくれた料理を食べて、風呂に入ってこれを書いている。そうだ、午前中に浮かんだバンドのアイディアをスケッチしておこう。