告別式と呼ぶには楽しさに包まれた送別会だった。その人が死んでも、周りの人たちが集まる空間には、故人がそこに現れる。
先輩に出会ったとき、ぼくは20代で学生だった。何がしたいのか、就職できるのか、不安しかなかったとき、先輩はすでに大人だった。それなのに自由人だった。登山口に機材を運んで先輩の仲間たちの小さなパーティーに参加したことがあった。夕方から音楽で踊り、日が登ると山に登った。先輩はサンダルのまま駆け上がっていった。あるときフェスで遊び過ぎて倒れてしまった人をみつけた先輩は、手を当てて念を送って魂と交信した。そんなまさか、目を覚ました彼女は穏やかに先輩が夢に出てきた、と言った。
先輩が日本のロック伝説、村八分のスタッフだったとも聞いた。70年代ころ。送別会で聴いた村八分は、ローリング・ストーンズの初期衝動みたいな音で、全部自分たちで作った、そのはじまりだったんだと分かった。先輩はアメリカにも暮らしていたしネイティブ・アメリカンとも繋がっていたから言葉の端々に智慧があった。ぼくがフェスのスタッフをやるようになったとき先輩は、イベントの中心にいるような人だったのに、アルバイトのぼくと一緒に作業してくれ、思想家バックミンスター・フラーが設計したフラードームの建て方を教えてくれた。
送別会でタバコを吸いながら立ち話した人は、78歳で面識がないぼくとも話してくれた。白髪混じりの長髪に髭のその人に「みなさんはピッピーだったんですか」と質問したら「誰かがそう名付けただけで、ぼくは自分の自由のために生きてきたんだ。みんなそれぞれのことをやったんだ」
「皆さんに出会って、人生が変わりました」と御礼を言った。
「正解なんてないから、よかったのかは分からないけどな、でもみんな自由を求めているだろ、だけどそんなものなかったりしてな、調子に乗ればすぐ失敗したりするしな」と話してくれた。その人は「これからは不良長寿の行き当たりバッチリだ」との名言を贈ってくれた。
先輩の周りにいる人たちと出会うまで、どうやって生きていけばいいのか見本がなかった。ぼくは子供のときサラリーマンとして暮らす自分の姿しか想像できなかった。だから体験するしかなかった。それは本や雑誌で読むようなものでもなく、実際に起きている出来事だった。目の前で。おかげでぼくは、日本に根を張ってきたカルチャーに触れることができた。60年代から90年代、その時代の若者たちが抵抗してきた歴史でもある。カウンター、オルタナイティブと形容される、つまりもうひとつの文化がいつも起きている。
その文化の一部を作っていたのが、亡くなった先輩やその仲間たちだった。当時は分からなかったけど、ぼくは自分の興味の源流へと向かっていた。そして学生のとき、つまらない未来しか想像できなかった自分を、その時代を生きている大人たちが、そんな自分を変えてくれた。
そんな若者のひとりだったぼくも高円寺で中高生への造形講座の講師を妻と二人でやらせてもらっている。参加している中学生のひとりが言った。
「時代を変えたい。ぼくの時代を。だって未来が楽しいとは思えないんだ」と。
その切実な想いが伝わってきて、ぼくは申し訳ない気持ちになった。どう考えても、いまの時代が彼らのために動いているとは思えない。物価は高騰し、大人たちは利権の奪い合い、足の引っ張り合い、嘘も本当も見えなくなって、大地や自然のことを忘れている。
ぼくは50歳だ。大人だ。年齢としては、この時代を創る側に立っている。それなのに目の前の子供がそんな気持ちになっていて責任がないと言えるだろうか。
その夜、東京で友達に会って、その中学生の話をした。
「でも、そんなもんだよ。俺だって今楽しいとは言えないし」「まあ、そうだよ。知らんけど」みたいな返事だった。それが普通の返事なんだと思った。もちろん、ぼくの友達はその子供に会ってないからリアリティがない。だからこそ、中学生の声を聞けたこと自体が、まるでこの時代を代表する叫びにすら思えた。
ぼくは中学生のときに音楽に出会って、自分が抱えていた違和感や不安を代弁してもらった。それが言葉になって勇気を貰った。そこへ行けばいいと。音楽をきっかけに文学や哲学、芸術にも興味を持った。もちろん、日本のアニメや漫画から教えてもらったことも多い。
どれも始まりは小さな没頭だった。きっと。砂場、落書き、粘土、妄想、口ずさむ詩、物語、模倣、戦い、敵、強い、弱い、ヒーローごっこ、悪、正義、それらが混ざって、いろんなタイミングが重なって、磨かれて誰かの心を動かすほどのエネルギーを持つことがある。はじまりは小さく、誰にも見えない何でもないほどに。
だからできることがあると信じる。表現をしたり作品にしたり、未満でも、それを届ける、伝える言葉、書く仕事もある。ニーズはなかったとしても。それを見えるようにしなければ仕事は中途半端だ。生きている間だけじゃない。死んでからも続く。むしろ死んだ後の方が長いから。
ぼくがしてもらったことをぼくができるなら、また伝わっていく。はじまりの小さな想いに誰かが手を差し伸べることからはじまる。拍手でも、握手でも、言葉でも。隣にいるだけでも。
先輩は、どうにも使えなさそうなぼくを分け隔てることなく、ひとりの人として相手してくれた。それがどれだけ勇気を与えてくれたか。セイカさん、ありがとうございました。