いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

"Let it be"ってこういうことか。

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朝4時に起きて慌てて海へ向かった。日の出を採取するつもりだ。西の空は明るくなっていた。クルマを走らせること30分。目的の海に着いた。太陽は想定のはるか左側から昇っていて目当てのロケーションは、絵になる景観にはならなかった。

景色を選びはじめると際限がない。むしろ偶然に身を委ねた方がいい景色に遭遇できる。いい景色がみつかならいとき、それはそれでもうすでに出会っていると解釈することもできる。探しているものはもう既に持っているのだ。それなのに別の何かを探してしまう。それじゃあ、永遠にみつからない。

日の出採取のおかげで一日を早くスタートできた。次は家に帰って草刈り。まだ朝6時。集落全体の景観をつくるという桃源郷プロジェクト。プロジェクトを立ちあげて、そのプロジェクトに従事している。6月の末から2週間、7月末、8月末、たぶん年に4回全体の草刈りをすることになる。自作自演の演劇みたいだけどこれも仕事になっている。おかげて草刈り三昧の日々。

こんなに草刈りに向き合う人もいないかも。きっと。作業としてだけでなく、行為として魅力を感じてはじめている。草刈りが好きになっている。草刈りをしているとき視界は緑に覆われている。そんな緑に没頭している感覚を絵にできないだろうか。

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見ていること、聞いていること、日常していることから影響を受けて表現している。だとしたら表現者はその環境づくりを意識しなければならない。作品を理想的なものに仕上げるのと同じように、理想的な制作環境をつくることで作品も生活も理想に接近していく。フィードバックしてお互いを高めていく。その理想がやがて社会を彫刻する。それがぼくの考えている生活芸術というものだ。

草刈りも社会を彫刻する。太陽を浴びて、青空の下、草を刈りながら思考すること、それはこの環境という唯一無二の土壌を耕して収穫すると同時に目の前の景色をつくる。現実の社会を彫刻すると同時に作品を産出する。生産物として。コトバ、文章、詩、絵、オブジェ、コンセプト、活動、それらはこの環境から生まれる。ほとんどの作品は依頼もなく、生きるためにしている活動の中から生まれてくる。大地から草が生えてくるように作品をカタチにしている。

いまは舟を作っている。バルセロナで出会った芸術家マークレディンにその喜びを教えてもらった。絵を描くこと、舟に乗ること、それらが生活のなかで絡み合って表現を育む。マークは特に「それがアートだ」とは主張しないけれど、ぼくにはカルチャーショックと言えるほど目が覚めた。その出会いから9年目。やっとそれができる環境に暮らし制作をはじめている。

昨日も午前中は草刈りをして、午後は舟づくりという理想的なスケジュールで制作していた。ところが3時頃から巣を作っていた蜂がこっちへ飛んでくるようになった。巣作りしているのをみつけたのは数日前で、なんとなく共存していたのだけど、昼間に買い物に行ったついでに蜂駆除スプレーを買った。まさか野生とはそれほどに敏感なのだろうか。ありえる。

攻撃的になってきた蜂には申し訳ないが日が沈んで蜂の巣にスプレーをした。

いまコンラートローレンツの「ソロモンの指環」を読んでいて、そこにこう書いてあった。

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わたしはいつもアクアリウムというものは自分自身で平衡を保ってゆける生物共同体だと考えている。それ以外のものは単なる「檻」だ。人工的に掃除され、衛生的に完璧な容器にすぎない。

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文章をまとめることも無理に終わらせる必要もない。もしかしたら、蜂もそのままにしておけば、それはそれで共存できたのかもしれない。