いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

書くこと。抵抗する武器。

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今日は草刈りの仕事だ。植木屋さんに誘われてアルバイトにいく。これはぼくの今日の仕事だけれど、一週間後には違うことをしている。

ある一場面を切りとってみたとしても、それは何も代表しないし、何も理解しない。つまりぼくが何者なのか、という問いは、とても長い道のりを横断しなければ、その断面を明らかにしない。自分のことですら、こうなのだから、ほかの何ものについても、それはそれは長い旅を続けることになる。

続けることだ。

だから、ここでは書くことを続けている。誰かに届ける前の何ものでもない文章を。自分がしていることを書いている。ときには考えたことも。書くことのためにいろいろな本を読んでいる。書き方を学ぶために。おかげで自分の趣味や指向性があって、スッとコトバが入ってくる本がある。そうではない本がある。

本を読んで文章を書いて、頭の中に思考回路をつくる。自分で考える道を拓く。そのときコトバは自律する。

多くの本は、他者を書くことでコンテンツを浮き彫りにする。そうすることで中身を担保する。クオリティを。その装い、ファッションを。ドゥルーズがとかニーチェが、と彼らのコトバを借りてくれば、それらしくなる。しかし自分がしていることの小ささを他者の引用で担保したくない。誰かに刺さらないとか、いいね、がたくさんつかないとか、そんなことで、自分のしていることの唯一性を否定する理由はどこにもない。これは原石なのだから。

書くとは、英語のwriteで、語源は「wirtata-引っ掻く、彫る」。書くことの起源は、文字の発明、そもそもは記録することに遡る。記録することは管理することだった。つまり文字は管理する側の道具だった。権力の。しかし今は行き届いた教育のおかげで誰もが文字を扱える。コトバを操ることができる。ここでは、管理する側へ抵抗するためにコトバを扱う。抵抗と言ってもファックとかノーと騒がない。むしろこっそりと従っているようでルールの抜け道を探る。

書くことは、社会に隷属するためではなく、社会から逸れて、社会を更新するためにするのだ。道は予め用意されてしまっている。その標識を歩いても、ルールの内側をぐるぐる巡るばかりだ。だから、道のないところへコトバを拾い並べて森に小径を切り拓くように踏み込んでいく。

どのように生きるのか考えること。「生きる」という現象も、360度展開する。上下左右、現在、過去、未来、勝ち負け、賛成反対。道を逸れるには、とりあえず、後ろ向きな方を選択しよう。とりあえず負ける。とりあえず過去へ。零れ落ちるモノたちは自由を獲得する。管理するに値しないモノたちは、反乱する自由を持つ。

広告やスローガン、成績や売り上げ、数の支配から脱するために思考する。自分のコトバを育てる。そうやって抵抗したとしても、どういう訳か、何度やってみても、ぼくらの存在は取るに足らないつまらないものだと思考に陥ってしまう。

負けっぱなしじゃ面白くないし、そうやって引用する。再び負けだ。

ドゥルーズは、A.Nホワイトヘッドの概念「セルフエンジョイメント」に愛着をみせた。それをどんな存在も観想すると説明した。花や牛は観想しながら自分で自分を充たし、自分を享受するのです。自分自身の要件を観想するのです。

セルフエンジョイメントはエゴイズムではない。この喜びは、自分を、自分とは異なる元素たち、つまり他者たちのまとまりとして観ることだから。他者たちを自己よりも先立てる。他者になるほどに私たちはますます自己になる。

セルフエンジョイメントとは「全体化不可能な断片の世界」に対応している。

千葉雅也「動きすぎてはいけない」より

 

せめても、自分の捻り出したコトバで締め括ろう。他者の引用ではなく、自分自身の内側にある他者を拾い集める。それが自分自身を映す鏡だ。

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