いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

もうひとつの生きるための芸術。

朝起きて草刈り。今年は6月末から夏日の猛暑。温暖化のせいなのだろうか。温暖化のせいというよりもこれも人間の仕業なのか。タバコが吸いたい。

クーラーがないから5時に起きて太陽が全力を出す前に仕事をはじめている。クーラーがないのはエコというよりも痩せ我慢かもしれない。けれどもないなりに工夫する生活が面白い。暑くなるならその前に仕事をはじめればいい。おかげ様で朝8時には、草刈りはある程度片付いている。

地面から草は容赦なく生えてくる。しかしこの緑が生えなくなったらこの世の終わりのサイン。その緑を一つ一つ名前も確かめずに雑草とひとまとめにして刈り取る。まったく自然に反する行為。けれども草を刈るとスッキリする。快感がある。人間が自然を克服して生活領域を広げてきた記憶の名残なのだろうか。妻もぼくもその快楽に誘われて草刈りをしている。83歳の石職人が呟く「苦しみと喜びが同時にやってくる」がここにある。

昨日、隣町のいわき市にライブを見に行った。SNSで偶然「生きるための芸術。」というイベントを発見したのがきっかけだった。生きるための芸術とはぼくが2014年頃に自分のアート活動につけた名前だ。このコトバを口にすると、ほとんどの人は分かったような分からないような顔をする。どういう意味なの?と質問されることも多い。生きることと芸術。たったこれだけのコトバだけど、それを選んでタイトルにする仲間がいたようで嬉しかった。

会場にいくとSNSでそのイベントを投稿していたユウシくんに会って、さっそく主催の松本くんを紹介してくれた。松本くんは楢葉町の市の職員で、震災をきっかけにイベントを主催するようになって、それが生きるための芸術に発展していた。松本くんは「震災のときに、生きることとは関係ないようなアートとか音楽とかいんろな表現がとても大切に感じて。だから自分がよいと思った表現をみんなに感じてもらいたくてイベントをやっています。表現の場をなくしたくない。表現者が続けられる場所をつくりたい」そんな話をしてくれた。そしてイベントの最後には「生きていること自体が表現でみんながそれをしているのだと思うんです」と宣言した。メモしたわけじゃないから、ぼくの気持ちと同化しているけれど、実際そうだった。震災を経て、生きることと芸術がひとつになってしまった、そういう思いが出会った。

有名になるとか、成功するとか、どうすればそうなれるのか、とか。表現そのものが、そういう方向に開かれていて、何ものでもないないとか、一体何なのか意味が分からないとか、いまだそんなものは見たことも聴いたこともない、という方向には開かれていないように感じる。最近の感想。昨日イベントを思い返してそう考えている。世の中に流通しているコトバも思考も成功の法則のために費やされているように感じる。

昨日見た表現者たちは、どの人もきっと何かの途上で、現在進行形でステージに立っている。目の前の観客に向けてパフォーマンスしている。ぼくはそれを目撃した。そして心を動かされた。ここに掛け値なしのほんとうのことがあって、そういう体験、出会い、それが何なのか、ということにコトバを費やし、足りなければさらに書き続けて、勝ちでも負けでもない、要領の良さや、数字でもない、ぼくが伝えるべきフィールドを掘り当てたような気がした。もちろんニーズなんないだろうけれど。

前回ここに「社会」はなくてあるのは「人間交際」だけだ、と書いた。まさにぼくの目の前から社会という虚像が剥がれ落ちた。評価されている、話題の、そういうものではない、それが何か、コトバを与えるとしたらやっぱり「生きている芸術」なのだと思う。それは雑草のように名前もなくただそこにあるけれど、耳を澄ませば、目を凝らせば、未だみたことのない、感じたことのない気持ちをぼくに与えてくれる。