いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

誰かのコトバじゃない、自分の目で見て感じたこと

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朝起きて今日は何をしようかと考えた。雨が降りそうだったけど草刈りをした。草は腰辺りの高さまで伸びていた。年に4回は同じ場所の草を刈る。ぼくが暮らしている場所は、限界集落で人の数よりも草や木の方が多い。朝起きて妻以外の人に会っていない。視界は緑に囲まれて、そのなか草を刈っていく。ひとりで黙々と。その時間ぼくは何かを考えている。思考している。ひとり生きるための作戦会議をしている。

週末は映画上映会のイベントを開催した。その準備から終わりまで、その仕事に10日間ぐらいは追われていたように思う。ついついそのせいか、夜はSNSを眺めていた。

2022年の夏。ぼくは信じられない世界に生きている。元総理大臣が、手製の銃で暗殺された。総理が宗教と癒着していたことが暗殺の原因だったと報道された。それについて、たくさんの憶測が噴出している。ロシアではウクライナと戦争をしている。景気は悪くなって、物価は高くなるけれど給料はあがらないと嘆きが聞こえてくる。インターネットを開いて覗くと、そこにこういう世界が広がっている。情報が世の中に行き渡るようになって、そのツールが増えるほどに情報は錯綜していく。新聞、テレビ、twitterfacebookinstagramyoutube、ブログ。ぼくたちはあらゆる場所から情報を引用して自分の世界を構築していく。一旦、構築されるとそれはイデオロギーになって、ひとそれぞれの考え方や意見を形成する。

草刈りをしているうちに、そんなことがバカバカしく思えてきた。自分の目の前にはそんなものは存在していない。政治も宗教もイデオロギーも戦争も。草が生えて、鳥が鳴いて、今は雨が降っている。もう少しで区切りがいいからと作業を続けた。これがいまぼくの目の前にある景色だ。それが仕事になって生きている。

「草を刈る」というおよそ、何の役にも立たないようなこの仕事が好きだ。何も生産していないし何も消費していない。それでも景観をつくるという事業のなかでこの仕事はわずかに社会貢献しているおかげでお金になっている。この仕事も元は誰にも頼まれてないアート活動の中から派生して、いまではぼくたち夫婦の生計を支えている。

頭のなかを巡っていたバカバカしい世界を切り離して、草を刈る手を止めて佇んでみた。雨の音、鳥の声が聞こえる。何もしないで佇む、という所作は動物に教えてもらった。田んぼにいる鷺が佇んでいる姿を見たことがあった。犬と散歩しているとふと止まって佇んで何かを見て聞く様子を知っている。一体何をしているんだろう、だからそれを真似てみた。

昨日、犬の散歩をしたとき、いつものコースを一周して戻ってもまだ歩きたそうにしていた。だから犬の好きなように歩かせてみた。犬に連れられて歩いた。犬に散歩してもらった。犬は川の方へ向かっていった。きっといつも水浴びする川が好きなんだ、それを覚えているんだ、と嬉しくなった。川に着くと立ち止まって匂いを嗅いでまた歩き出した。どんどん真っすぐに。犬に目的なんてなかった。ただ歩いていた。

ぼくはぼくの世界をつくっている。それは「生活芸術」という表現の仕方。生活をつくるということをすれば、人はもっと豊かに自由に暮らせる。そう信じている。ぼくはその方法を発見したと思っている。それは勘違いかもしれない。けれども勘違いこそがアートの源泉だ。その勘違いをここに記録している。忙しいときは、ここに何かを書く気持ちにならない。イベントをやっても、その成果や何かを記録したいとは思わない。むしろ何も予定もない、そのなかで日々の営みをしているとき、ぼくは何かを感じたり考えたりする。自分の内側から湧いてくる気持ちやコトバ。それを書き留めることでぼくは自分の世界をつくっている。誰かのコトバじゃない、自分の目で見て感じたこと、それはまるでほかの人とは違うはずだ。その違いの向こう側とここを繋ぐためのコトバを紡いでいる。