いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

アートとは何か。毎日の生活のなかにあるモノ。

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妻に人生って何だろうね、と聞かれて答えた。時間が流れていく、その瞬間ごとにしていることだよね。そのしていることが楽しいと感じられるならそれが幸せだよね。

有名になるとか、売れるとか、金持ちになるとか、それとは違う仕事や表現、遊びを創作したい。つまり、直結して誰かの人生を豊かにするような。自分や他者を削って成立するのではなく、搾取する構造を再生産しない道を拓きたい。もちろん自分もその渦に飲み込まれているし、そのポジションは経済的には不利でもある。けれどもここを突破しないと次の時代が見えてこない。

アートキュレーターに檻之汰鷲さんのアートは、いわゆるアートではない、と言われて痛快だった。けれども確かにそこに表現はあって、それは我々の課題でもあるという話だった。

つまりアートとは何か。アートがアートのためのアートだったらキュレーターさんも満足したのだと思う。しかし意味を問うとき、コトバは何も返答しなくなる。沈黙し空虚になる。まるで器のように。だからその側面を逡巡することになる。

アートは明治時代に輸入されたコトバ。翻訳語として芸術という漢字が与えられた。それ以前とそれ以後に分断された。アートというコトバはそれ以前を伝える術を持たない。

日本のアート輸入以前は、それぞれの表現があった。版画、書道、茶道、日本画は西洋画に対抗して作られた。岡倉天心は、アート輸入以前の表現を茶の本に著した。

日本は東洋。どちらかと言えば、西洋よりも中東に近い精神性があるように思う。イスラム教は偶像を崇拝しない。無、ヴォイド、虚を知っている。岡倉天心茶の本に託したアート以前のスピリットには、虚空の思想が伝えられている。生活そのものを芸術にしようとする秘伝。

生活とは毎日のこと。何をして何をしないのか、人生の瞬間を選択し構築していく。毎日の景色のことだ。どこで誰と何をして生きていくのか。何を見るのか。何を聞くのか。何を口にするのか。コトバだけではなく、毎日食べるもの。それが目の前の大地が育んだ野菜であれば、その人は大地と共に暮らしていく。自然とどう向き合って毎日をつくるのか、それを創案することがこれからのアートだと提案したい。

だからぼくは大地に種を蒔き、花を咲かせ絵をつくる。ぼくの周りにある表現を分け隔てなく並べて、それぞれが輝くようにイベントをつくる。

お年寄りの三味線や尺八、沖縄の歌を練習中の人の表現、子供のダンス、歌い始めたばかりの未完成な歌。

それらを未満として切り捨てるのではなく、それらの表現が成立する環境を用意すること。それもアートの成せる技。もし有名な歌手、ヒットした歌、技巧的に優れているなどしか評価できないのなら、それは生きているアートではない。死んだ値札の付いた商品だ。キュレーターはそれに気づいている。けれども優劣の眼差しをなくしてしまえばすべては無に還ってしまう。それを知っている。だからぼくの前に線を引いて言う。それはアートではない。

だからぼくは喜んでこの道を拓きたい。未だアートになっていない、生きるための芸術という道を。この話を英語で、海外で話せるようにする。それが次の目標になった。道は続く。生きられる時間が一日減って、生きた時間が一日増える。