いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生きるための死との間で

考えていることに澱みがなくなるにはどうしたらいいのだろう。シンプルになるために沈んでいこうとすると、周りが暗くなって、それではダメなような気がして、また騒ぎの最中に戻っていこうとする。

雑音が多いとしても、雑音を耳に入れなければ、その音は環境の一部になって透明になる。そこにあっても、それを入れないという選択ができる。音も透明になる。見えるし透き通っている。

妻の実家に来た。昨年、妻の父が倒れて、入院手術から奇跡的に回復した。生きて目の前で話をしている。食事をしている。お酒は飲めなくなった。動きも遅い。それでも不自由なく生きることを満喫している。ひとりの人間の死と生の間に立ちあっている。実はすべての人がその間に毎日立っている。

1月から北海道で滞在制作の予定。豊滝という地と縁を得て、そこに18日間暮らす。観光ではなくその土地と交流する。ひとつの目的は雪景色を描くこと。もうひとつの目的は、何もないようなこの地に足跡を残すこと。その土地の魅力を旗に立てる。次に来る誰かが交感できるポイントを地図に撃つ。何もないところだからこそ、できる最初の一歩という記録。

妻の父の姿を見て、自分と重ね合わせた。それくらいの年齢になったのか。まだなのかもうなのか47歳だけど死が見える。たぶん、このまま行けば、ぼくは孤独な老人になるだろう。子供もいなし、妻の死を看取りたいと思う。少しずつ自分の死をデザインし始めている。

作品をどんどん不器用な方へと進化させたい。上手くなったらその技術を手放していく。これから作られる作品たちの声が聞こえる。技術に呼ばれている。型染め、紙づくり、版画、エンボス。墨、白、草木染め。

もっともっと手放してシンプルになるために北海道に滞在する。何も始まっていない土地で何もできていない自分に出会い、ゼロからはじめるために。

何度も何度も繰り返し潜れば、沈黙や暗闇にも慣れて、そこから何かをはじめることがてきる。