いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

自然と社会の境界に景色をつくる芸術試論

草を刈ることは/コンクリートや/アスファルトではなく/大地の上にいる/木を切るのなら/そこに自然がある

札幌での制作も折り返し地点をターンしてカタチが現れてきた。

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札幌の冬は雪が多く積もって壁も埋まる。だから現代ではサイディングなどの建材が壁材として使われている。その現代的なものを前時代的なものに変える。拝殿は杉板に覆われることになった。森から伐採したカラマツが飾り柱として使われる。

作業をしていると

「何をしているんですか」

と聞かれ咄嗟に

「木の壁に変えて雰囲気を良くするんです」

その人は意外だったような顔をして子供に

「雰囲気を良くするんだって」と説明した。

説明を間違えたのか、うまく伝わらなかったような気がした。

この仕事は、出来事の流れのなかで、こういう結果になっていった。オーナーのジンさんの巨大さもある。何百人という従業員がいる飲食店チェーンを経営する社長であり、サーファーだから波を中心にライフスタイルを組み立ててきた自由人でもあり、この人の情熱がエネルギーとなって、このプロジェクトは推進している。まるで巨石を動かすように。

北茨城でやっている景観づくりを観て、ノリオくんとチフミちゃんに龍神のエリアの監修を頼みたい、と声を掛けてくれ3年目、現場セッションでしかない、ぼくらのクリエイティブを信用してくれた。いつも通り野良芸術だ。おかげでこの地点まで来れた。期待されていたのはDIYだった。つまり土地のオーナーのジンさん自ら草を刈り、木を切るようになった。草刈りや木切りをまるでサーフィンで波に乗るように興奮して楽しむ姿。それは北海道の開拓スピリットでもあり豊滝という土地そのものの姿と重なった。

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アートとは何か、生きるとは何か、真っ直ぐな問いに向き合って制作してきたことが、ひとつの道となってここに繋がっている。今のところ、それは大地のうえに表現されるものだとひとつ道案内のサインが立った感じがする。

家を起点に周辺環境へと庭から、さらに広げることができる。しかし、それができるなんて稀で、多くの場合、土地は細かく区分けされ所有され、少しもはみ出すことも踏み入れることも許されない。つまり他人の土地には想像力も働かない。

ところが、北茨城市で展開している桃源郷は、限界集落という社会制度から溢れ落ち常識もルールも緩くなっているから、家を起点に庭から森へと自分の縄張りを拡張することができた。ぼくの土地はないとしても。

縄張り

動物にとっての縄張りは個体や集団の防衛、食料の確保、繁殖の成功などを容易にする機能を持つ。人間の場合、それ以外にも聖と俗、身分の上下など、価値を区切る役割を持つ文化的な制度である(wikipedia)

 

違った。縄張りではない。にしても、ぼくらは社会のなかで接触が許されるエリア、その範囲に活動している。そのエリアとは、会社だったり職域だったり、部屋やアトリエスペースだったり、専門領域だったりする。仕事や生活や趣味などの行動範囲もある。さらには思考範囲、それらをまとめて「関係領域」と呼ぼうか。

書きながら収穫する。テーマとして<領域>という言葉を発掘したわけだ。英語のterritoryもしくはfield.それはフィールドワークとしてもいい。

どういう範囲を活動領域にしているのか。絵画なのか、彫刻なのか、ファインアートなのか。カテゴリーで捉えるならぼくの場合は<自然と社会の境界/Boundary between Nature and Society>だ。

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草を刈り木を切り大地のうえに表現するからだ。それは白を塗る下地をつくる作業に似ている。

していることを理解するために文章を書く。自分が何をしているのか。というのも社会にある職業にも当て嵌らないし、芸術家だと言っているけれど、本当にしていることが芸術として理解されるかも怪しい。つまりは探究しているけど、お金にも評価にもならないところもある。発表したとしても、領域が謎過ぎて理解されないこともあり得る。

でも大切なことは作っていること自体だ。領域を横断することだ。作ることは平和活動でもある。自分自身の。この世界の。作品はすぐにカタチになるものばかりじゃない。大地のうえでは生きている。生き物だ。だから育てる。かつて空き家が生きていると感じたことがある。大地のうえに作られるものは生きている。だから成長する。はじめから完成しない。時間を必要とする。なぜなら風や雨、太陽、春夏秋冬、季節をめぐり、周囲の環境とコミュニケーションする。環境に作られていく。

オーナーのジンさんは理解してくれた。

「杉板になれば時間と共に変化していくのが楽しみですね」

経年は劣化とされる。しかし見方を変えればそれは景色が変わっていくことでもある。生きるとは変化だ。日本には何百年を超えて建ち続ける木造建築がある。新建材は数十年で耐用年数を終えてしまう。しかし木材の耐用年数は歴史が証明する。

北茨城市関本町富士ヶ丘の<桃源郷>、札幌南区豊滝の<龍神>は、自然と社会の境界をテーマにした作品として、やがて遺すことができるかもしれない。こうやって言葉で書き起こし自分で理解し、結び直す、つまり意味をコラージュしなければ、それぞれの出来事はそれぞれの領域に戻ってしまうから。だからこうしてまず自分のなかに世界を結ぶ。現実の世界に立ち上がるもうひとつの世界を。