いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

宗教哲学アートに関するノート

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札幌での滞在制作は折り返し。あと10日ほど。やっぱり新しく出会う土地での制作から学ぶことが多い。湧き水の神社の草を刈ったり、倒木を伐ったり、本殿と呼ばれる小さな社を修理して色を塗ったりした。していることはほぼ管理人だ。アートだったら、アーティストだったら、そこに何か表現として作品を置くだろう。しかしそうはならなかったし、そうはしなかった。なぜならここは神社だから。神が宿る場所だから。その空間に対して表現するべきことは空間そのものを表現することだと考えた。それは安易にオブジェや絵画で表すものではない。

札幌での滞在中に安藤礼二という人が思想家、井筒俊彦について書いた本を読んでいた。簡単にまとめると井筒俊彦は新しく編み直されたアジアの思想を目指した。イスラームから古代ギリシャ、仏教までを範囲とした、日本がかつての大戦で大東亜共栄圏と目論んだ地図と一致する。

神社と関わることは日本に於ける宗教について考える機会にもなった。日本人は何を信仰してきたのか。札幌市のはずれの山のなかに建てられた神社とお寺。北海道は去年150年の節目を迎えた。祝祭ムードから一変、差別を強いてきた先住民を無視して祝うとは何ごとかと批判も目にした。北海道のその以前はアイヌの土地だった。それを日本に統合したわけで、北海道が150年というのは一方的な話。それはそれとして、だから神社もお寺もこの土地に於いてそれ以上遡る歴史がない。つまり入植者たちが持ち込んだ文化だ。それでも150年経っているから、それなりに時間の積み重ねはあって、そうした積層のうえにある神社を再生して欲しいという依頼で今回札幌市で滞在制作をしている。

だからアートの制度上でのアーティストインレジデンスをしているわけでもない。空き家を使わせてもらいwifiもない環境で久しぶりに不自由な生活をしたおかげで感覚を研ぎ澄まされた。つまりこれは修練だ。

この制作のテーマは信仰ということになった。見て聞いて感じてするべきことが現れる。事前に計画を出すことの無意味さ。とは言え無意味に石を投げる価値もある。イメージの源泉は現場にある。その土地から湧き上がるインスピレーションを表現する。

この神社は龍神を信仰している。水が湧いていること、かつての修験者が白い蛇を見たこと、山から龍が昇るのを見たと言い伝えられ、それを信仰する神社がある。それともうひとつ日蓮さんの法華宗を信仰するお寺もある。

信仰とは何か。この場所に関わりながら、井筒俊彦の哲学がとても参考になった。なぜなら宗教と哲学を混ぜて思考させてくれるから。どうしても宗教となると無条件に拝んでしまうというか、思考を停止して祈るような雰囲気がある。実際、法華宗のお坊さんは法華宗が何を大切にしているかと言えば日蓮さんによる曼荼羅だと説いた。それはつまり日蓮さんがどのように仏教を解釈して我々に伝えたか、ということを信仰する教えで、ずいぶんと手前の話のように感じた。

なぜなら、仏教も宗教のひとつであり、ここには神社もあって、何なら北海道以前のこの土地にあったものにも思いを馳せるほど、ここでの信仰には多様性があるはずで仏教だけではこの空間を読み解くことができない。例えば神社とは八百万の神といわれる土着信仰で、その対象は森羅万象に及ぶ。それはアイヌのカムイに通じる。

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今日はこんな滞在制作の状況下で岡倉天心茶の本に関する勉強会に誘われ、座談会にオンラインで話すことになっていて、なので空き家の家主の居間を借りてwifiに繋いで参加した。

講師は五浦天心美術館の館長、小泉さんで、岡倉天心の研究をしている方だった。岡倉天心は明治時代に西欧化するなか、日本の芸術を探究した。なかでも英語で書かれた茶の本は、英語圏に向けて日本に於けるアートの心を説いた。それはARTという言葉が輸入され芸術という言葉ができる以前の日本のそのスピリットをお茶に託して伝えたのだとぼくは読んでいる。ではアート以前に日本にあったそのスピリットとは、生活の芸術だと天心は語っている。家は壁や屋根や床に価値があるのではなく、その空間に営まれる生活に価値がある、と。その虚にこそ。そしてその虚とは仏教の空の思想と重なる。

自分のなかで岡倉天心井筒俊彦が重なったのは初めてのことだった。空であることは、イスラーム偶像崇拝を禁止すること、信仰の対象にカタチがないことに通じている。井筒俊彦はさらにギリシャ哲学のディオニソス、酩酊の神によって憑依され、そこで体験されることに神の原形を見出し西欧と東洋を結びつけた。そしてそれは光だということ。ひとつの光のなかにいくつもの光が同時に存在しているという。

"asia is one"アジアはひとつ。有名な岡倉天心のフレーズと井筒俊彦が目指したアジアの哲学。それを貫くのが宗教としての思想。もっと砕いて言えば宗教とは哲学だった。もっと融合させてしまえば、それらはどれもアートであった。生きるための。

小泉先生は茶の本から引用した。

Again the roji, the garden path which leads from the machiai to tea-room, signified the first stage of meditation, --the passage into self- illumination.

また路地とは、待合から茶室へと通じる庭にある道ですが、瞑想ー 自己を映し出す悟りへの道の第一段階の役割を果たします。

"the passage into self- illumination"

passageには時間の経過も意味する働きがある。つまりここでは成長や発展を意味している。過程として。

ぼくたちは現代社会のなかで、常に結果的な要求に応えようとしてしまう。目に見えるカタチで評価を求めてしまう。しかし内面が磨かれるという結果も確かに存在している。

岡倉天心茶の本のなかで"art is being in the world"と書いている。アートとはこの世界に存在すること。それを"Adjustment is art"と説明している。整合させること。もちろん、岡倉天心井筒俊彦にアートとは何かの答えを求めることは時代錯誤だろう。けれども自分の表現を追求した先、目の前に神社を整える仕事があり、それを表現者としてどう応えるべきなのか。その方法を先人から学ぶとすれば、それは日本に積み重なった層を掘って学ぶことができる。そこには日本という文化を貫いて世界に広がる眼差しが眠っている。

この宗教と哲学とアート以前の日本的なそれには、無と有、その両極を重ねてひとつに結んでしまうようなものの見方が伝えられている。つまりは作らないながらに作る。何も無いところにあるもの。その奥義のようなこの伝統の流れを汲んで表現できるとしたら、この札幌の滞在制作はどれほど有意義だろうか。しかしこれは禅問答ほどの難題であるから、ぼくたちが何かをすることとしないことの境界線上に表現を置くことになる。それは目に見えないかもしれないしカタチもないかもしれない。それでもそこに何かを表すことができるなら、野生の芸術、生きるための芸術の道にはまだまだ先がある。

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