いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

それが好きだからやるというだけのこと。

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楽園だった。

朝起きて6時には海に入っていた。夏は終わり秋が始まろうとしていた。北茨城の平日の海はほとんど誰もいない。ぼくはサーフボードに跨って海の上にいた。

あったはずの波が弱くなって、曇っていた空の隙間から太陽が出てきて、光の筋が海に降り注いだ。すると、周りの魚たちが海面に姿を見せるようにあちこちで飛び跳ねた。そのまましばらくこの絶景を楽しんだ。要するに誰もいない海の上でぼうっとした。けれども、しばらく待っても波が来ないので、一旦海から出ることにした。

砂浜に上がると、ちょうど来たクルマから誰かが手を振っている。見上げると、この海で知り合った友達だった。彼は、サーフィンを中心に生活していて、つまり波に合わせてライフスタイルをつくっている。旅にもいつでも出れるようにして、仕事はあまりやらない。

ドレッドでボブマーリーみたいな彼を仮にBと呼ぼう。Bは当然ながら、波のよい状態のときに決まって現れる。ぼくみたいな初心者にすれば、彼が現れたということは、波がよくなる印でもあった。

「ノリオさん、どうですか今日は?」

「1時間前くらいから入ってて。波がなくなってきたから、場所を変えようと思って」

「でもすぐよくなりますよ、ほら」

見ると波が出てきた。

「あそこを見てください。砂が溜まったんだな。ウネリが来てる。あそこいいですね。入りましょう」

Bはそうやってサーフィンについて教えてくれる。Bが準備している間に、ぼくは先にそのポイントに向かった。

はじめてウネリがリズムになっているのが見えた。バリでサーフィンを教えてくれたツトムが言っていたことを思い出した。

「サーフィンは音楽なんだ。波がリズムになっててさ、波に乗るってことは波とセッションすることなんだ」

しかしリズムが見えても、なかなか波に乗るタイミングを掴めない。実は最近、海で小さな怪我ばかりしていた。とにかく突っ込んでは波に飲まれて、足をボードにぶつけて負傷していた。少し怖くなっていた。だから、サーフィンの解説動画を見て、波のタイミングを掴む学習をしておいた。

大縄跳びに入るような感じで、連なるウネリのひとつにタイミングを合わせて波に乗ろうとする。

そうしているうちにBが海に入ってきた。ぼくの近くに来て、やってきた波にさっと乗った。いとも簡単に。そのおかげでタイミングが分かった。上手い人と海に入ると必ず上達する。

何度か失敗するうちにタイミングが合ってきた。そして遂に今までで一番上手く波に乗ることができた。それからはBと海の上でお喋りをして、波が来たら乗ってを繰り返した。

どういう巡り合わせか、この2年くらいサーファーに出会うようになった。そのすべての人はサーフィンでお金を稼いでいない。だからサーフィンを続けるためにそれぞれのライフスタイルを作っている。それぞれがそれぞれのやり方でサーフィンと人生を楽しんでいる。そんな好きな物事との付き合い方を知らなかった。音楽だったら、売れなかったらお金を稼げなかったらやめてしまう人が多い。アートでもそうだ。でもサーフィンは違う。

Bはさっき書いたように、サーフィンをする自由のために余計な仕事はしない。お金はたくさんないけれど、それでも好きなことに没頭できる自由な環境をつくっている。

高校の同級生ツトムは、バリ島でバリの女性と結婚してゲストハウスを経営している。もちろんサーフィンを好きなだけやるために、そういう暮らしをつくっている。

ツトムを通じて知り合った何店もの飲食店を経営する社長のJさんも、多忙ながらも日本とバリの二拠点生活をつくって、サーフィンを楽しんでいる。

ぼくが最近サーフィンが面白いと感じるのは、そういう側面が心地よいからだ。

絵を描くことは、それ自体は楽しむ行為だけれど「アート」という枠に嵌めると、値段を上げて価値をつくることや、有名になることとか、そういう側面も見えてくる。それはそれで確かに存在するから、そのゲームに参加するけれど、サーフィンのような純粋に楽しむ気持ちを持っていたい。その姿勢をインストールするためにサーフィンをやっているのかもしれない。

もっとも海が好きだから、できるだけ長い間、海に入りたいだけなのかもしれない。今年の冬はついに舟をつくりたい。アイルランドのボートカラックを。そして海の景色を作品にしたい。