いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

失われた道を求めてー世界を拡張する眼差し

夏の気配が近付いてきて、気温が30度にもなると海に行きたくなる。妻チフミが察して

「海早く行きなよ」

と言った。

解放された。何か好きなことに夢中になることに罪悪感がある。お金に結びつかないことは無駄だと考えてしまう癖がある。ほんとうにそうだろうか。

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クルマにサーフボードを積んで海を目指す。20分ほど。到着すると、波はどうだろうか、ほかに人はいるか、と気になって、空と海が目の前に広がって、期待と喜びが溢れてくる。北茨城市の長浜海岸が好きで、この場所を独占するのが密かな願いだけれど、先客の釣り人かサーファーが海に入っていれば、ささやかな夢は打ち砕かれる。と言ってもたいした問題じゃない。

この日は幸い誰もいなくて、初心者向きの小さな波だった。水平線からやってくる波のウネリを見て、波が立つところにサーフボードをパドリングして漕いで、タイミングを合わせて、うまく波に乗れば立ち上がる。よっぽど上手くいけば、少し波に乗れる。

これぐらい初心者な訳だけれど、海に何時間も入って遊べるのが幸せで、前世は海洋民族だったんじゃないかと思っている。6月の頭なのに夏のような気候で、ウェットスーツを着ないで短パンで誰もいない海に入っている。なんて最高なんだろう。

夢中で波を追いかけて失敗して、また追ってたまに乗ってを繰り返して、波に乗る瞬間は数秒の出来事なのだけれど、この瞬間にたくさんの動作と思考と反応が連鎖して波乗りをしている。

 

芸術家を名乗って絵を描くことを仕事にしている。でも、絵を描くことだけが芸術ではないと考えていて、その考えを表現するために文章を書いている。目的とは違うところから生まれてくる感情やアイディアが大切だと思っていて、ある種のエラーのような、別の回路から間違って直結するような閃きのために文章を書いている。自分のサイエンスがここにある。

いろんなことをやってみては、回路を混線させて、既存の芸術という概念をショートさせて、芸術という現象をその源流まで遡って役割を問い直したい。だからぼくのしていることは何らかの間違いでもある。

 

今は地域資源の開拓に取り組んでいて「景観をつくる」というコンセプトで、大地に働きかける作品を作っている。いわゆる限界集落と呼ばれる観光資源もない人口も過疎化が進む、何もない場所の資源を開拓している。何もないところを開拓するとは禅問答のようだけれど、何もないと言っても無じゃないし、ゼロでも真っ白でも真っ黒でもない。

地方に対して「何もない」と言い切れてしまう目線が面白い。ぼくにはこの「何もない」ところにこそ必要なすべてが揃っているように思える。確かにビルもコンビニもお店もない。けれども水、太陽、土、火、植物、木、鳥、星、空、空気が揃っている。この神話レベルのエレメントを前にして、それでも何もないと言えるのだろうか。

この地域の情報はインターネットにも書籍にもない。そもそも記録されたことがない。だから、地域の人の話が情報源となる。

お年寄りの会話の端々に登場した「山の向こうの鉱泉」というワードが気になっていた。かつて山に入って鉱泉を沸かして入浴したらしい。どこにあるのか聞いても、あっちの方とか山の裏程度にしか教えてもらえなかった。

別の話のときに山の裏へと続く道があると聞いて「これだ」と一致した。山の向こうの鉱泉と山の裏の道が頭からの中で繋がった。さっそく、山の反対側に向かってみることにした。

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小さな山だから直線で頂上を目指した。ところが頂上らしきところから反対側を覗いてみると、谷になっていて、森の中へと迷い込みそうだった。携帯電話を取り出してグッーグルマップを開くと現在地が分かった。航空写真に切り替えると山の地形が分かった。地図を頼りに引き返して、遠まわりだけれど、山道を歩いて反対側にあるらしい鉱泉を目指した。

どれくらい前まで使われていた道だか分からないけれど、確かに人が歩く道だった。人の気配は消えて、鬱蒼とした木々と草が茂っている。しばらく歩くと、水の流れる音が聞こえた。その先に木の間から沼のような池が見えた。近づいて触ってみたけれど、これが鉱泉なのか判断できなかった。

誰も足を踏み入れなくなった山の裏側は自然の宝庫だった。人間のしたことより自然が勝っていて何も邪魔もなく自然が溢れている。ここは野生の空間だった。この野生のなかを歩いていくと、かつて開拓された痕跡に出会う。鬱蒼とした木々が伐採され、空がぱっと広がり、不自然な土地が裸のように露わになっている。その不自然さに色気を感じた。自然が裸にされている。

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絵にしようと閃いた。裸の自然。数十分その光景と空気を味わって、さらに進んだ。地面は湿地になっていて丸太を転がして橋にしてある。かつてはもっと利用されていたに違いない。さらに進むと藪だらけになって、道が見えなくなった。その奥には、壊れた標識が倒れていて「阿武隈線38号へ」と書いてあった。これ以上進むと、長くなりそうだったので引き返すことにした。


帰り道に思った。人間は世界を縮小させている。人間の活動範囲はどんどん小さくなっている。「役に立つ/立たない」という人間の一方的な価値基準は目を塞いでしまう。

誰も来ない限界集落の山裏の山道なんかに何の価値もないだろう。けれども「もっといい場所がある」と優劣をつけることで、目の前のことは切り捨てられていく。それは自分自身の可能性を切り捨てることでもある。目の前に広がる世界に対する価値判断は、そのまま自分にも向けられてしまう。

「走るのが遅いから走らない」のは、競争するから生じる理屈で、自分の健康のためや楽しみのためであれば、遅いことは、やらない理由にならない。

サーフィンもそうだ。たくさんやる人がいて、自分が下手だったら、恥ずかしいし周りに迷惑だからやる気がしなくなる。けれども誰もいなくて、ただ海と戯れるだけなら、何度でも失敗していられるなら、もうその失敗は失敗じゃなくて、その失敗自体がサーフィンになる。

意味や利益や目的を求め過ぎて、世界を限定している。ぼくらは自ら目隠しした世界に閉じ篭っている。目を塞いでこの閉ざされた世界を生きるうちに、ぼくらは愛を失っている。「愛」なんて言葉はほとんどこの社会に流通してないんじゃないだろうか。もし愛があるなら、それは価値や役に立つとか、そういった利害とは関係のないところにある無償のもののはずだ。

一体、どこまで歴史を遡れば、楽園があったのか考える。聖書にエデンがある。そんな遥かむかしに失ってしまったのか。いや、優劣をつけなければ、ありのままを受け入れることができれば、この今も楽園に生きることができる。

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社会は競争させ優劣を決める。価値判断のために。人間すら優劣で測られる。そうじゃない。生まれたことに価値があって、その価値をみんなで祝福し支え合うのが理想の人間社会じゃないだろうか。