展示の最終日になった。絵を描いて、オブジェを作って、それらを並べて鑑賞してもらう。それらを買ってもらう。地方だけれど老舗ギャラリーということもあって、ギャラリーで展示するという流れを経験できた。
そのおかげで、自分の表現の場所を再確認できた。ぼくの表現はギャラリーで展示することだけではない。それも大切な部分だけれど、ぼくの表現は絵画の向こう側、その作品が生まれてくる過程にある。これは自分が「活動」呼ぶ行動の中にある。活動自体は何も生まないかもしれないが、確かにそこには表現が発生する現場がある。
ぼくの表現には「現場」が必要だ。つまり現場があれば「表現」が生まれる。現場と表現を結ぶバイパスを展示と呼ぶことができるのかもしれない。本にまとめている「生きるための芸術」シリーズもバイパスのひとつに数えられる。ここでバイパスと呼んだものが展示では、インスタレーションなのかもしれない。
現場と表現とバイパスをどう取り扱っていくのか。そこに自分が開拓するフィールドがある。
現場は、自然とか、田舎とか、都市とか、社会とか、いろんなところに見出すことができる。その現場に何かしから関与して、そこに与えた影響を表現として可視化することが自分の作品だとも解釈できる。それを並べて鑑賞してもらうことが展示になる。
その意味では、技術的な探究を志向するよりも、現場で発掘したものを表現に変換さえできれば、技術は研ぎ澄ます必要もない。むしろ、無垢なままの方が、その技術の原点に触れることもできる。その原点を明らかにすることが「生きるための芸術」と呼ぶ活動そのものである。
その際に「リサーチ」と呼ばれる調査、比較検討はサンプリングとしての役割を果たす。現場での発掘作業は、直感と発見によるものだから、そのもの自体は既にオリジナルとして存在する。それを表現に変換するとき、様々な技術的な事例が参考となる。
ただし「絵を描く」(→ぼくら夫婦の場合は「絵をつくる」が的確に思う)ことは、日々の暮らしの中に織り込まれるその作業自体に、現場から表現へと変換する際に要求される技術が詰まっている。だから「絵をつくる」という活動は、自分の表現活動の根幹でもある。美しさを凝縮していく作業には、また別に語るほど豊かな奥深さがある。
だからと言って「絵を描く」ことに縛られる必要もない。思い出すのは、エジプトで滞在制作したとき。食べ物の伝播をテーマにストリートでおにぎりと作り方のレシピを配布した。食べ物が不足する地域で、食べ物のレパートリーとして食卓にオニギリが並んだら、豊かさを描くことができると考えた。
その意味で「絵をつくる」とは「絵を描く」とイコールではない。「絵をつくる」は場面をつくるとでもある。写真に収める、映像にする。それも自分たちの表現手段になる。
我々はどこからやってきて、何処へいくのか。ゴーギャンがその傑作のタイトルで呼びかけるメッセージは、ぼく自身のテーマになっている。
ゴーギャンが、実は多くの文章を残していると知ってその本を取り寄せた。
ゴーギャンは、言葉を書くことで、世間の理解が及ばなくても、自分だけは何をしているのか理解してその道を進んでいた。最近思うのは、表現をコトバに変換したからこそ、歴史に残るのではないのか。本人かやらなくても誰かが、それをするから記録として残る。歴史に残してやろう、という野望よりは、人間というものを少しでも明らかにしてみたい。明らかにするというよりは裸にしたい。裸にしてやるというポルノとは別のエロスなのかもしれない。
文章を書くことは、ブログとかPV数とか、そんなことはどうでもよくて、その時々の自分の思考を削り出すためにしている。その時々の思考とは、ほんとうにその時々にしか存在しなくて、その時々に刻まなければ、その思考は波に攫われる砂のように消えてしまう。自分の表現が日々の泡と消えてしまう前に、ぼくはここに記録している。