いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

社会にこれからの未来を提案する

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雪のなかの景色を描いた。北海道の暮らし。屋根の雪下ろし、排雪する様子、雪に包まれていく家々。当たり前の風景が愛おしく思えて。

知らない土地に行ったら、その土地を知ろうとする。それが滞在制作の楽しみで、それをすることで自分を知る。北海道は約150年前に北海道になった。滞在した豊滝で話しを聞くと4代前が開拓者としてこの土地に来た。だから、この土地を引き継いでいきたいと話してくれた。暮らしは歴史と大地と繋がっている。

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北海道の150年より前はアイヌの歴史になる。ウポポイを見学して「アイヌから見た北海道150年」という本を買って読んだ。どこから来てどこへ行くのか。絡まる歴史を紐解きながら、それぞれの道を示すしかない。

 

ぼくの道は「生きるための芸術」。歴史を紐解けば、芸術とは生きるための技術だった。つまり生きることが表現だというメッセージ。生きるとは、自分が生きていく環境をつくること。それが生活。家を作ったり、水を手に入れたり、畑をやったり、何千年前、何百年前までの人間が自然のなかでしてきたことを日々の生活に取り戻すこと。ぼくはこの生活をつくる活動を「生活芸術」と呼んでいる。これは解放と自立のムーブメント。生きることに関するあれこれを商品からではなく自然から手に入れること。

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これは祖父母や父や母の時代から受け継いできた生活スタイルの一部を変革する試み。これまでは高度成長期の延長線にあった。日本は戦後、ほんの数十年のうちに経済的な成長を成し遂げた。それは自然を犠牲にして成り立ってきた。ぼくたちの暮らしはこの延長線上にある。漫画やアニメや映画やアートはさんざんこの危機を物語ってきた。それでもやっぱりそのメッセージを消費するだけでそれらを現実に反映してこなかった。

 

どこから来て、どこへ行くのか、これは他人の問題じゃない。それぞれに向けられた問い。同じ場所に留まることもないし、指し示された方へ歩いていけばいい未来でもない。

多くの人は気がついている。低いところから高いところという線的な視点ではなく、面から球で捉える時代に変わっている。低いと高いは180度回転すれば逆になる。それだけのこと。甥っ子のゲームに参加させてもらったとき、画面は面だけれど、その奥には世界があった。世界とは、グラフでも数字でも線でも面でもない。彼らはそういう次元を体験している。

 

48歳になって、今回の滞在制作を経て、ぼくが感じるのは、高度成長期的な日本社会ではなく、もっと尺度の長い歴史を踏まえたライフスタイルの提案を目指したい。これはAではなくBをというのではなく、AもBもCもDもと選択肢が増えていくこと。これまでは自分の生活をつくってきたけれど、これからは、生活芸術を社会にインストールしていく器になりたいと考えが変わった。ぼくは経済成長する。

今回は高校の同級生ツトムの縁で、サーフィンで繋がったジンさんに大きな世界を覗かせてもらった。

出会った数人だけでも、皆が自然のなかにつくる暮らしを模索していた。単に類は友を呼ぶなのかもしれない。だとしても、そういう動きが起きていることは間違いない。人と出会うことでしか進まない。社会はその連鎖でつくられていく。そのためには動くしかない。けれどもその動きを止めようする、この社会状況をサバイバルしていくことも、自分が嫌だと感じることから離れることも、それができる環境をつくることも、この先の未来をつくる一歩になる。そういう時代の変換期に生きている。

一度にスタートとして同じゴールを目指すやり方は終わり、それぞれのタイミングでにそれぞれの目的地へと散っていく未来のために。