いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

ますます抽象的になって より美しくより適切になる

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あまりに早く目が覚めた。深夜2時。波乗りのために5時に目覚ましをかけていたから、起きることにした。昨日も波乗りに行った。南風で波が良さそうだった。午後一で海に着いた。波は大きかったし数も多かった。実際に海に入ってみると、さらに波は大きかった。パドリングで波の向こう側へ行こうとしても押し流されてしまう。やっと波の向こうへ出るとすぐにうねりがやってくる。タイミングを合わせて、パドリングするも、波のトップから転落する。たぶん、ここで着地できれば違っていたんだと思う。ところが波に呑まれて、また浜へ押し流された。場所を変えて、それぞれ一時間づつ海に入った。海から上がって休んでいると、市役所の知り合いの人がクルマで通り掛かって、ちょうどよかったと打ち合わせがはじまった。

桃源郷づくりの森林の伐採や道をつくる計画について話した。木を伐るのは秋冬だから、これからがシーズン到来のようだ。

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海から帰ってきて、風呂の小屋の隙間をトタンで塞いでいると、木工の師匠、平さんが遊びに来た。コンクリートにおが屑を混ぜた器を薪風呂で焼いてほしいと頼まれていた件がどうなったかを楽しみにしているようだった。けれども平さんの器はいとも簡単に砕け散っていた。そのことを話すとやっぱりと言った。とくに残念そうでもなかった。

数日前に上妻世海という若き思想家のトークyoutubeで観た。とても難しい話を丁寧にかみ砕いて伝えようとしていた。話の中で「正解や答えのないことに取り組むことは仮説と検証の繰り返ししかない。それに対して答えはあってそれに向かって取り組むことには正解と失敗がある。」という話をしていた。

サーフィンをやることには、正解がある。僕程度のレベルでは。けれどもあるレベルを超えていくと正解や答えのない領域に到達する。そこからは創意工夫で自分のサーフィンがはじまる。平さんがコンクリートにおが屑を混ぜて焼くことは、正解や答えがなく焼いたらどうなるか、という仮説を検証している。

自分は正解がないことに取り組むのが好きだ。身の回りを見渡してそこにあるものから着想を得て、生活をつくることや作品をつくることは、まさにそういう取り組みで、他にやっている人もいないから、すべてが冒険になる。遊びだとも言える。実験だとも言える。要するに誰も取り組んでいないことは、何とでも言える。つまり自由だ。

ぼくは40歳を前に会社で働くことを辞めた。つまり独立して生きていくことにした。芸術家として独立する方法もやり方も分からなかった。これも正解がないことへの取り組みだった。まずは家に関するコストをゼロにすることを思い付いた。7年前だ。ボロい空き家を改修して暮らせば家賃が安くなると考えた。ついに昨日、改修してきた廃墟の家の内装が完成した。同時に家賃も土地代もなくなった。水は井戸から汲んでいる。調理は薪ストーブ。(夏はカセットコンロを使っている)。電気は通した。便利だから。風呂は薪風呂、トイレは蓋つきのバケツにうんこをしておが屑と腐葉土をかけるコンポスト。こんな具合に、便利と不便を組み合わせて、適度にお金の掛からない暮らしをつくった。

家賃を払わない代わりに自由な時間が手に入る。そういう時間を家の改修やアート制作、今年はサーフィンに費やしてきた。

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それでも正直なところ、たまに不安になることがある。望んでいた自由であることが不安になる。周りを見れば、みんな規則正しく働いている。ちゃんと働いている。そうしないことは悪いことだと教育されてきた。たまにそのマインドが発動して不安になる。だから自由になっても、自由な自分をコントロールする必要がある。そうしないと「ちゃんとする」の圧に負けてしまう。だから自分をコントロールする技術を磨くためにスポーツをする。自由に生きることと身体を思い通りに動かす技術は通じている。正解があることと正解がないことも表裏一体で、水面下でその両方を行き来することができる。基礎が分かるというのは正解に向かって取り組むからで、だからこそ、そこから外れても戻ることができる。そうやってはじめて遊ぶことができるようになる。

家について取り組むようになって7年。アートで生きていくと決意して9年。身の回りの自然のエレメントを駆使して作品をつくろうとして数カ月。何かをカタチにするには6年ぐらいかかるのかもしれない。

あまりに早く起き過ぎたので陶芸家バーナード・リーチの「陶工の本」を読んでいる。

原始の模様の多くは、完全に抽象的であるように見えるが、それにも関わらず、かかる伝統の模様の大部分に、叙述、文学、あるは象徴上の起源があることは真実である。そのうえ、長期にわたって、同じ模様を絶え間なく繰り返す結果、説明の要素は徐々に失われ、ますます抽象的になっていく調子がそれに代わるが、これはしばしばその目的によって、より美しく、より適切なのである

説明の要素は失われ
ますます抽象的になって
それでもその目的によって
より美しくより適切になる

そういう作品を目指したい。

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海に行った。荒れててサーフィンはしなかったけど日の出が美しかった。