いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

進むべき道を照らすための日記

1週間にひとつぐらいは考えたことやしたことをメモしておきたい。昨日は友人の音楽家松坂大佑のアルバムのブックレット・デザインをした。

1日という単位のなかで、仕事や遊びや楽しみや不安や未来への投資など、できることを展開している。投資と言ってもお金じゃない。自分の持ち時間を純粋に未来に投資している。

最近の心情としては、何が仕事で何が遊びだか分からなくて、つまりのところ日々はとても素晴らしく充実している。その一方で現在の社会はコロナウィルス蔓延が続き、その状況も2年目になっていて、自分の生活がいつまでこうしていられるのか先行き不安な状況でもある。

現在の記録としては、9月の個展に向けて新作をつくっている。夫婦で一緒に制作するスタイルは、それぞれの性格や得意なところ、お互いを補い合うバランスで役割が少しずつ変わっている。今は、絵のアイディアと下描き、パネルや額づくりは自分の担当で、絵を描くのと仕上げは妻が担当している。会社で例えるなら、営業や企画は自分がやっていて、経理と制作と社長は妻が兼任している。

芸術で生きていくと決意したのが20年前。仕事を辞めて専業にしたのが10年前。安定は永遠にないけれど芸術家を職業にしている。何にせよ、この社会で生きていくにはお金を手に入れなければならない。働いても働いてもお金が余るなんてことはなかなかならない。だから、お金をあまり使わない生活スタイルを選んだ。それでもやっぱりお金はあったほうがいい。その矛盾の間で右往左往している。

つまりは理想と現実の乖離が問題で、現実社会は、燃費の悪いクルマの如く、永遠に働き続けるようなシステムを設定してくる。それに対抗していまのライフスタイルを作った。だからと言って、このままでいいということはなく、足元は自分の理想で固めて、この社会に挑戦していきたいとは思う。挑戦するとは、数字の獲得のことだ。現代社会は数字で評価される。中身は問わず10冊売れる本よりも1000冊売れる本のほうが価値がある。挑戦するために、出版するアカウントをつくった。いわゆる出版社だけど「社」という単語が気に入らないのでアカウントと呼んでいる。「地風海」と名付けた。妻チフミから戴いた名前だ。3年間に10冊の本が出せる。権利に2万円を払った。安いのか高いのか分からない。ISBNというコードがないと書店での販売やアマゾンでの取り扱いがしてもらえない。これもまたシステムだ。

本をつくることは自分のライフワークで、そもそも本をつくることから自分の決意は始まっている。27歳のときに決意したのは本をつくることだった。本が好きで、なかでも文章のレイアウトが狂っている本を集めていた。面白いというだけで、なかには読めないものもあった。ほとんどの本は売ってしまい手元にないのだけど、ジョンワーウィッカーという人の本は大切に今も手元にある。この人はUKのテクノで知られるアンダーワールドが所属するデザインチーム「トマト」の首謀者で、この人が手掛けた「The Floating world:ukiyo-e」は自由なページづくりの傑作だ。文字が様々なサイズやフォントで踊っている。天空の星のように散りばめられている。四角いボックスに収めていく通常のデザインとは一線を画している。

そうだ、話は理想と現実の乖離だ。ジョンワーウィッカーに影響を受けたぼくは、数年かけて一冊の本を完成させた。それが2011年のことだ。最初の作品がフルスイングでホームランのはずだったが、意味不明だと理解されなかった。でも数人の理解者は傑作だと褒めてくれた。最初の作品は創造力の果てまで旅をした自分の記録だった。遠くまで行けることが分かった。だからいつでもそこまで行くことができる。理解されるものが素晴らしいとは限らない。いまは理解できなくても、未来に受け入れられる作品もある。そういう作品に影響を受けてきたから仕方ない。宮沢賢治カフカ、郵便配達員のシュヴァル、アルクトゥルズへの旅、レーモンルーセルラメルジー

作品をつくることは、理想をカタチにすることだ。頭のなかのイメージをカタチにする。ぼくは妻と共同作業することで、頭のなかのイメージをカタチにする過程に起きるエラーを作品に取り入れている。妻といくらコミュニケーションしても、伝わらないところはあって、それが作品に反映される。予想もしなかった何かが作品のなかに現れている。そこにこそ檻之汰鷲というカップル芸術家にしか表現できないオリジナリティがある。

しかし作品をつくることと、それを社会へと送り出し貨幣へと換金する作業はまったく別の次元。惑星が違う。言語が違う。とにかくそれぐらい違う。しかし、この社会では、それをやらなければ作品をつくって生きていくことはできない。自分がやらないなら誰かにやってもらうしかない。しかし待っていても白馬の王子様はやって来ない。ギャラリーがあなた素晴らしいですね、わたしのところで個展やりましょう、その結果バカ売れ大ヒット、なんてことは滅多に起きない。

ところが今回は、珍しくギャラリーのオーナーがぼくたちに個展をやろうと声を掛けてくれた。ぼくは「ノーエクスペクテーション」という呪文を知っていて、何かオファーがあったとき、起きた出来事以上の期待をしないことにしている。もしかしたら、こうなるかも!という期待は、期待しているだけなら実際には起きないことのほうが多い。期待の対義語は失望だ。またはもうひとつの呪文「貪・瞋・痴(とんじんち)」を唱える。これは人間のもつ根元的な3つの悪徳のこと。自分の好むものをむさぼり求める貪欲,自分の嫌いなものを憎み嫌悪する瞋恚,ものごとに的確な判断が下せずに,迷い惑う愚痴の3つから逃れるための呪文。

いずれにしても、予期するものを待つだけでは手に入らない。代わりに、そのイメージした期待が現実になるようにオブザーベーションする。オブザーベーションとは、ボルダリングの用語で、どのルートを通ってゴールへ到達するか、コースを目視で検討することだ。つまり、自分の期待にどうやって到達できるのか、そのルートをみつける。

だとして9月の個展で起きるだろうミラクルは作品が売れることだ。では、どうしたら売れるだろうか。お知らせをすることだ。それから作品を買いたいと言っていた人はいなかっただろうか。作品を見せたい人の顔を思い出してメッセージを送る。次に展開したい場所や人に連絡する。SNSに投稿する。それ故にぼくは営業を担当ということになる。

社会は複雑だけれど、どうやっても人と人の繋がりでしかない。コロナウィルスで、人と人が出会えない期間が長引いているけれど結局のところ社会とは人だ。というわけで、この文章を書いて、そろそろ個展のお知らせをする時期だったと気がついた。

ぼくはぼくでしかない。けれども、そのぼくがどんなぼくだったのかさえ忘れてしまう。忘れてしまうと自分と対話しなくなる。対話を怠ると、人生のどこを歩いているのか地図を確認しなくなる。コトバは世界を理解する唯一のツールだ。だからこうやって文章を書いている。自分をオブザーベーションして進むべき道を照らすために。

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