いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

身の回りのモノを利用して生き延びる技術。

職業は芸術家。集落支援員。妻と二人で限界集落に暮らして、その行く末を見守るだけではなく、日本の端っこ、自然に囲まれた田舎の未来をつくる仕事をしている。芸術家としては、日々、文章を書いて絵を描いて、立体作品をつくって、土器づくりの準備を進めて、地域の景観をつくっている。イメージしたものを絵や文章で表現するように、目の前の大地を草刈り機やチェンソーで作り変えている。

【目の前にある身の回りのモノを最大限利用する】
例えば、料理で何かを作ろうとしたとき、レシピをネットで検索して材料を買ってくる。そのレシピも材料も元を辿れば誰かが作ったモノ。もっと辿れば、その素材は自然にあるものを利用してつくられている。

この法則はすべてに応用できる。住む家を探したとき、ネットで検索して場所や価格や家の状態を検討する。そのもとを辿れば、身の回りのモノを駆使して住居をつくることができる。仕事を探したとき、ネットを検索して、職種や条件や勤務地などから検討する。その元を辿れば、なんのために働くのか。生きるために生存するために働く。生きるために必要なモノは何か。家、食料、水、熱源、トイレ、本、電気、携帯、インターネット、数えれば幾らでもあるけれど、優先順位を検討してみれば、なんのために働くのか、その意味を知る。

ぼくはそう考えていまの暮らしをつくった。できるだけ「買わない」を選択していくことは、捨てられているモノ、誰も興味を持たないモノに辿り着く。そうしたものを利用して「自分で暮らしをつくる」ということになった。

社会から放棄されつつある限界集落に暮らしてみると、はじめは「何もない」と感じる。ところが、川があるとか山があるとか、荒地も田んぼだったとか、畑だったとか、見えるようになってくる。そこに暮らしている人の話に耳を傾けてみれば、歴史が見えてくる。放棄された空き家の荒れた庭に生えている木のひとつひとつにも、役割と意味があることを知る。

目の前にあるモノは、自分が選択してきた人生が手繰り寄せている。今一度、目の前にある環境に利用できるモノはないか、検討する余地がある。

ぼくはいま本を出版しようと考えている。いくつかの出版社に本のサンプルを郵送した。10社ほどアプローチして返事をくれたのはいまのところ1社。この出版社に心から感謝する。それは断りの連絡だったけれど、丁寧な文章でぼくのつくった本が世の中に流通する方法を示してくれた。それはシンプルな「自分でやれ」というメッセージだった。

なぜ本を出版したいのか。本が好きだから。ぼくは自分が「生きる」ということに真正面から取り組んでいるその活動を、どこへ向かっていくか分からないまま、シリーズとして本にまとめている。これはライフワークだ。漫画が好きだから、人生がそのまま物語になれば、きっと何か残るモノになるとも信じている。何を残したいかと言えば、もう充分に社会は成熟していて、競争することも戦う必要もないということ。スポーツのようにそうした部分が残ったとしても、競争から零れ落ちていくモノを利用するだけも、楽に生きていくことができる。

ぼくは出版社や編集者の意見を聞きたかった。その意味で返事をくれた1社はその答えだったのかもしれない。

芸術家として作品をつくり売っているけれども、賞を獲ったわけでも評価を受けているわけでもない。ぼくと出会ったひとが理解してくれ、作品を鑑賞してくれ購入してくれる。本もそういうやり方で売ることができる。

社会が発達すれば、ひとりでやれることが増えていく。考えて行動すれば、いくらでも道をつくることができる。いまはそういう時代になっている。

「身の回りのモノを利用して生き延びる技術」
身の回りにあるモノやヒトを信じて、置かれた状況をよく観察して、何か役に立つものはないか探して利用すれば、人混みを走り抜けるように障害をクリアして進むことができる。