いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

展示3日目。「生活芸術商売」展に起きたこと。

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結果的に店舗を持ったことになる。期間限定の檻之汰鷲(おりのたわし)ギャラリーが有楽町マルイの8Fにある。チフミとぼくは店員として接客し、お店の商品を生産して、流通から仕入れ、店舗デザイン、宣伝をしている。作品は10点以上が売れた。これは何か幻のようだ。

ぼくはここで商売をしている。アート制作は一次産業だ。想像力という自然の営みから商品を作り出す。アートは商品なのか。檻之汰鷲というアート活動の一部は商品だ。社会に働きかけ貨幣を獲得する装置として。生きるための技術として。よく貨幣は信用の数値化だと言われる。確かに。有楽町マルイで個展をやって分かった。誰か知らない人がミラクル的に作品を買ってくれる可能性よりも、これまで繋がりがあった人たちが魅力を感じるモノコトにこそ商売の原点がある、と。ぼくを知らない人にとっては、信用の数値は限りなくゼロなのだから。

実験をしている。例えば、地方に暮らし制作に没頭して、その成果を都市に運んで経済活動ができないだろうか。もし、それが可能なら、いま拠点にしている北茨城市は、表現活動する人々にとっての楽園になる。

けれども今回の結果を出しても、それで生きていける訳じゃない。ひとつの結果を出したとしても、それはひとつの山を登っただけで、目標は死ぬまで山を登り続けることだ。もちろん、山なんて登らなくたって構わない。けれどぼくは、没頭していたい。夢中でいたい。それには登り続けるしかない。

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展示には、これまでに影響を受けた本を並べている。店番をしながら読んだ宮本武蔵の「五輪書」に士農工商についての記述があった。久しぶりに読み返してこれだと思った。「工」とは匠の技術のこと。「農」とは食べ物をつくること。「士」は、武士のことだけど、ぼくにとっては芸術の道を追い求めること。「商」は、生きるために貨幣を獲得する商売をすること。

展示にある画商の人が現れた。その人はぼくたちの作品を観て「いい作風だ」と褒めてくれた。そして「もしかしたら、君たちの絵を高く売ることができるかもしれない」と言った。つまり、画商の人は安く仕入れ高く作品を売れば、取り分は30%だけれど、安定した収入にはなる、と。プリント作品を販売するから、広く行き渡り有名になるかもしれない、必ずしもすべての作家にそれが良い訳じゃないが、と話してくれた。

ぼくは思った。ぼくは絵を描いて、それを鑑賞してくれる人に出会うのが好きだ、と。絵が人に感動を与える場面に立ち会いたいと思った。

「アートで生きていく」という野望が「アート共に生きていく」に変わった。アートとは遠くいる誰かではなく身近にいる人たちの中に宿っている。すべては自然の中にあるのだから。まだ言葉にならない、感覚だけのスタート地点に立っている。

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冒険は続く。