いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

今日をつくる。イメージすること。

今年のお盆は雨が降り続いて、西日本では災害も起きるほどだった。自分が暮らしている場所は、夏が終わってしまったようだった。けれど雨が続くと、屋外の仕事がなくなり、創作活動に専念できる。サーフィンにも行こうと考えなくなる。

雨が続いている間、冬から作っている馬を仕上げる作業をした。終わらせないと永遠に作業は続くようにも思える。締め切りは仕事に区切りをつけてくれる。馬は、パピエマシェという技法で、新聞紙、段ボールと小麦粉を煮た糊で作っている。ほぼ実寸大で、可能なら屋外に展示したい。しかし紙でできているから何かしらの加工が必要で、できるだけ天然素材と考えていたけれど、結局、エポキシ樹脂で固めることに落ち着きそうだ。

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こんなに大きな馬を作ってどうするのか、とも思う。思い付いてしまったのだ。馬を作ろうと。アイディアが湧いてくるとき、それは意図しないところからやってくる。馬を作ろうという発想は、この環境が源泉になっている。つまりぼくが発想したというよりは、自分は媒介であり、周囲の環境がそれをイメージしたと言うことができる。だから売れるかどうかは問題じゃない。その懸念は純粋なクリエイティブができたとき解決される。すぐではないにしろ、それが役に立つときが来る。むしろマーケットを意識した時点でそれは使い古された記号に囲われる。

例えば、2年前に廃墟に捨てられたタイヤを単なるゴミで終わらせないため、タイヤを使ってペインティングをした。閃きがあった。それはタイヤペインティングという連作の絵になった。あれから2年経って、先月アトリエ&ギャラリーを訪れてくれた人が3枚まとめて購入してくれた。このタイヤシリーズは、タイヤに働いてもらって処分費用を自分で稼いでもらうというプロジェクトでもあった。ついに完結の目処がたった。

表現するということは、純度が高いほど商業的ではなくなる。商売するのが悪いという話しではなく、商売に寄せることで、生まれてくる表現が変更されることを危惧している。

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長雨が終わって、夏日が戻って早速、波乗りに行った。夏は海に入らないと何かを損した気持ちになる。海が好きだ。だからサーフィンをしている。最近たくさん海に入って上達した気になっていた。だからどんな波でもとりあえず海に入っていたら、コツが分からなくなって、波に飲まれまくった。たまにケガをしたりして妻に隠したりしていた。どうして上手くできないのか「波に巻き込まれない方法」を調べてみた。驚く解決方法だった。それは「成功をイメージする」ということだった。

波に巻き込まれるのを恐れると、タイミングを見失ってしまう。成功するタイミングは、恐れの向こう側へいかないと掴むことができない。だから、失敗をイメージするよりも成功をイメージしろ、という説だった。

絵を描く、立体をつくる、という表現も同じなのかもしれない。絵を描いて失敗するということは1ミリも考えないし、立体もそうだ。いつもこうなるというイメージがある。それは今日一日という単位にも当てはまる。今日はどこまでやれるか。そのイメージがあるかないかで全く違う今日になる。まだお昼た。どこまでやろうか。とりあえず馬の色塗りの下準備は終わらせておきたい。

サーフィンでぶつけた腿が痛いが、これは秘密の話。

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夕方前には馬の色が決まった。