いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

桃源郷芸術祭/Arigatee(ありがてえ) 

「忘れていた記憶が蘇ってきました。
過去と現在が繋がって驚いています、ありがとうございます。」

 20世帯もない小さな集落の古民家を改修したギャラリー・アトリエの展示をみてくれた人の言葉。

 
2018年3月14日から18日までの5日間、北茨城市の7箇所を舞台に「桃源郷芸術祭」が開催された。昨年の10月から改修してきた古民家Arigateeも、その会場のひとつとして参加した。築150年の古民家は、芸術祭の出展作品でもある。

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 できるだけ、そこにあるモノを素材にする
ぼくと妻が心掛けていること。買ってくればそれで満たされてしまうのを、別のモノで代用したり工夫するところに想像力が働いて、予期しなかったカタチが現れることがある。頭の中のイメージを超えた何か。勘違いやトライ&エラーがオリジナリティを発揮させる。それを失敗と名付け抹消しなければ。今日話した友達は「棚から牡丹餅」は努力の結晶だと評価した。つまり、棚に牡丹餅があることを発見したこと。その餅が棚から落ちてきたタイミングで、そこにいたこと。

 赤い屋根の古民家は、この土地に馴染み、自然の一部になっている。150年生き延びてきた家そのものが美しい。周辺環境も美しい。これがアートでないのだとしたら、ほとんどのアートは偽物だと思う。否。本物のアートをみつけ、これがアートですと提示するのが作家の仕事かもしれない。

別の企画で、布を集めていて、偶然、数メートルの長さの五色の布を手に入れた。これで古民家を飾ろう。イメージか湧いた。あらゆるところから、自在に距離を保つ。抵抗するでもなく、流されるでもなく、自立しているような。その状態を「A」という記号で表した。

f:id:norioishiwata:20180327192357j:plainここでは、arigatee のA。つまり感謝。artのA。attitudeのA。anarchy=無政府主義のサインでもある。

 

古い家には、人間が生きるために蓄えてきた技術と道具が結晶化している。現代に通用しない古いモノは化石とも言える。化石を標本として陳列する。それを博物館と呼ぶ。ぼくは、このarigatee にあったモノを発掘して磨き展示した。これは博物館に見立てたコラージュ作品。実在しない揚枝方民俗博物館を5日間だけ出現させた。

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訪れてくれた6割は50代以上だったと思う。そこの土地にあるモノは、その土地に生まれ育った人々の記憶の片隅に眠っているモノたちだった。鑑賞した人々の記憶は眠りから目を覚まして、かつての働きについて嬉々として語ってくれた。泣いて喜んでくれた人もいた。

 

ぼくの目的は「生きる」と対峙する機会をつくること。さらに言うなら、感動をつくりたい。心を動かしたい。その結果、作品がよければ、貨幣価値が生まれるのだと思う。

 こう言う人がいる
「作品の値段安くないですか。もっと高くした方がいいですよ」でも、そう言う人は買わない。

 78歳のお婆さんが猫の作品を買ってくれ、こう言った。
「賢い猫だこと。この子だったらエサ代もかからないし、わたしが死んでも大丈夫だわ」

 作品と鑑賞者の心が通じたとき作品は売れる。もちろん、作品が売れるのは嬉しいこと。感謝。

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家を作品にすることは、その空間で起きるすべてをアートだと言うことができる。ぼくの作品ではなく、そこに現れるパブリック・アートとしての作品。誰かと誰かが、そこで会話する。そこで生まれる気持ち。空気、鳥の声。風、花、木々に石。縁側に腰掛けて感じること。ときには雨、ときには晴れ。この場所に5日間で延べ500人も訪れてくれた。あの心地よい空間はみなさんの参加なくしては成立しなかった。そのひとりひとりに感謝です。

 

桃源郷芸術祭には、arigatee の他に、天心記念五浦美術館にも作品を展示した。

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 【MAGIC HOUR COLORS】

ひとつは、ペットボトルの筏で北茨城の海岸沿いの岩まで漕いでいくプロジェクト。この映像作品。筏の実物、絵画3点。

筏の実物は、使用済みペットボトルであることと海に浸かっていることから、展示できないかもと打診された。理由は自然物の展示は黴などの原因になりやすく、所蔵作品に影響を与える可能性があるからだった。かつて、新潟の美術館は、自然物を展示して、黴が広がって、所長が辞任する騒動になったらしい。

チフミはその話を聞いて、ペットボトルの筏を密封する方法を模索した。そして、無菌状態でペットボトルの筏を展示することに成功した。

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美術館は綺麗だし、成果になるけれど、木も飾れない石も置けない、花も活けれないのであれば、そこにある作品は、生きているのだろうかと考えてしまう。arigatee に、庭の梅を剪定したから飾ろうと持ってきてくれた梅の花を、牛乳を入れていた鉄瓶に挿したとき、とても美しかった。捨てられる梅の花が偶然に活躍する場面。そいう瞬間は、美術館では起こりえない。

北茨城市という地域でアートを魅せるなら、美術館からArigatee まで続く道の途中に見たり聞いたり感じたりすることこそがアートなんだと提案したい。だからこそ、桃源郷芸術祭で、もっとも桃源郷のような場所を会場にした。ぼくたちが、暮らしている日常こそが、もっとも美しく、また、そうなるように働きかける技術が、アートなんだと思う。

今回、展示で紹介できなかったけれど、Arigateeの裏に樹齢500年の木があると教えてもらって。昨日、その樹に会ってきた。

f:id:norioishiwata:20180327202306j:plain自然は大きい。人間は小さい。


生活芸術家
檻之汰鷲(おりのたわし)

http://orinotawashi.com/