いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

理想のライフスタイルをつくる冒険から次の冒険へ。世界ぜんたいの幸福。

長い旅だった。東日本大震災からライフスタイルをつくる冒険をはじめて9年目、理想の暮らしづくりが着地しようとしている。旅は遠くに行くことだけじゃない。日常を旅することもできる。何も起きなければ、明後日に引越しをする。

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場所は北茨城市。今住んでいる海側の町からアトリエのある山側に作っている家に暮らす。すべてが進行形。で、終わりはない。何かをしている途中。廃墟改修して家を作っている途中だけれど、もう引越して暮らしながら改修する。ゴミ同然の廃墟だったから、完成までの道のりは長い。

 

それでも家賃はゼロ円になった。水も井戸で畑も借してもらった。里山という環境の底力を体験している。いまは、春を迎えて山菜が溢れている。先週末は、友達に誘われて山に山菜を採りに行った。山に行かなくても、新しく暮らす場所の周辺に山菜が溢れていることを地域の人が教えてくれている。

 

トラックで通りかかった石屋さんが「しどき」という山菜を分けてくれた。週末は「タラの芽」と「ワラビ」を採った。お世話になっているお婆さんのスミちゃんが「こごみ」を持ってきてくれる。ついでに畑で採れ過ぎたほうれん草も運んでくれる。

 

新しい家は、11世帯しかない集落にある。いわゆる限界集落。芸術家の地域おこし協力隊として北茨城市にお世話になって3年が過ぎた。その期間、この地域にアトリエをつくり、根を張ることになった。おかげで、廃墟とその土地を使わせてもらうことになった。

 

2月には有楽町マルイで個展を開催して70万円収入があった。4月からは、この限界集落桃源郷にするためのプロジェクトを実現するため、地域支援員という仕事を北茨城市が用意してくれた。芸術活動が仕事になった。アートで生きていけるようになった。

 

市は古民家を改修して地域に開いたアート活動を「生活芸術」が地域活性をしたと評価してくれた。その実践をさらに根付かせるための環境を提供してくれた。


そもそも、創作に没頭するのが目的で東京を離れることにした。生活コストを下げたかった。9年間の挑戦の結果、生活すること自体がアートだと認められた。それは大勢の理解者や評価ではなく、数少ない理解者によって成立している。顔が見える人に自分の考えるアートを表現し伝えてきたからだった。それはぼくが表現することというよりも、目の前に既にあるモノコトがアートだと提示することだった。

 

日本人にとっての芸術は、生活のなかにある。ぼくはそれを伝えたい。これはぼくが海外を旅して、日本の芸術とは何かについて考えてきた答えだ。まず、日本人のかつての家そのものがアートだった。いや、家というシェルターを作ることが人間の営みで、それこそがアートの原型だった。建築家もいなければ、図面もない。それでも身の回りのモノを駆使して家を建てる奥義を、ぼくはザンビアで泥の家を建てて、知ってしまった。それは、茶室が本来持っていた侘び寂びの原型でもあった。

 

「身の回りのモノを駆使する」こと。

これこそが人間が生き延びてきたテクニックだと感じている。身の回りのモノを駆使するということは消費の反対の行為をすることで、つまり生産。消費する量よりも生産の方が上回れば、生きていける。生産するときに、身の回りのモノでコトが済めば、材料費がかからない。それなら金銭的な売り上げがなくても経験や未来への投資と考える余裕が出てくる。

実験するということは、必ずしも結果は伴わない。むしろ失敗の方が多い。それを繰り返して、失敗の積み重ねがステップになって経験が積み上がる。材料費を捻出するよりも、いくらでも繰り返しできる、その余裕を捻出する方がいい。

 

ぼくは日本人だから、日本の芸術を追求したいと考えている。日本画とか茶道とか書道とか、既成の枠組みではなく、それらのもっと源流に遡っていくような探究を続けたい。それには手当たり次第、直感で進むしかない。勘違いのエラーが、ほかにない新しいコンセプトを生み出す。その道こそ、人類が生きるためにしてきた普遍的な活動に回帰すると妄想している。これを伝えていかなければならない。しなければならないことではないのだろうけれど、ぼくの道は決まっている。そう決めている。だから、こうして書くモチベーションが生まれる。

 

ぼくの芸術的なルーツのひとつに宮沢賢治がいて、農民芸術概論は、ぼくが進もうとする道を何度も照らしてくれた。そこにこう書いてある。

 

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

 

いままでは、この文章が理解できなかった。けれどもいまは分かる。ぼくは東日本大震災からライフスタイルを作ってきて、仕事も住む場所も変えた。だから、コロナウィルスの影響を受けていない。災害という意味では、社会はどちらも同じ混乱を露呈している。ぼくは9年間、こうしたらもっと良くなる、とメッセージしてきた。たくさんの人が共感してくれているようだった。けれどもそれを行動してきた人はあまりいなかった。

だから、いま「世界ぜんたいの幸福」の意味が分かる。ぼくは変わった。けれども社会は変わらなかった。だからぼくは続ける。

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