いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

そのままで大丈夫?!今ここからの未来へ。

クルマを走らせて目に止まった。道端の2羽の鳥だった。瞬間だった。一羽は倒れていて、もう一羽はなす術もなく横で見つめていた。まるで長年連れ添った夫婦みたいで愛おしく感じた。しかし、そこには悲しみもあった。そのままクルマを走らせ去ってしまった。なんだったのか、そんな光景が今も頭に浮かんでいる。

ここ数日誘いがあったり友人が尋ねて来たりした。お酒を飲んだり話をしたり楽しい時間を過ごした。その間は作品づくりが止まっていた。提出しなければならない企画の資料をまとめたりはした。

金曜日の午後に時間が少し空いたので図書館に行った。欲しい本をすべて買うわけにもいかないから、リストにしておく。こうやって時間をみつけ手元に置いてみる。たくさんのもののかから何かを選ぶ喜びがある。それは映画でも音楽でもいい。消費だけが目的ではなかったりする。

スーザン・ソンダクの「他者の苦痛へのまなざし」を借りた。タイトルを書店でみたときもうそれだけで読みたかった。そのときは東京にいて、前の日に24時間上限ありの駐車場だと思っていたところが勘違いで7000円も駐車料金を支払ったので我慢した。そういう事情もときにはあるから図書館には助けられている。

この本はタイトルの通りの内容だった。一章だけ読んだところだけど、戦争について書いてある。2003年に出版されている。なるほど20年前だけど、その当時も今も世界は戦争をしている。SNSやネットのニュースで戦争の映像も見る。誰かが死んでいる。ビルが破壊される。一般市民が殺される。しかしもちろん痛みはない。心ぐらいは痛むだろうか。しかしやがて慣れてくる。安全な場所にいる気がする。遠くの出来事のように。

素晴らしい本だったので購入した。続きはゆっくり読もう。そのあと制作した。展示に向けて完成させたい。木を削った。木彫だ。こちらは完成に近い気配がしてきた。では額を作ろう。木を切ってボンドでつけて乾かした。そのときに感じた。自分が帰ってきた。

自分がどこかへ行っていたのだ。言い方を変えよう。自分の心とか制作する姿勢とか、必要なもののバランスが整った感じがした。

モノをつくる=アートに取り組んでいるのは、生きることに向き合うためだ。生きることは目の前で起きている重大事件なのに忘れてしまう。当たり前過ぎて。空気みたいで、いちいち酸素がとか、水素が太陽がとか考えないのと同じように。

モノをつくることが特定のジャンルに定まらないのもそのせいだ。生きるという事件。あらゆる角度から検証したい。コトバ、絵画、木、土、文章、映像、詩。自分というもの。これは器だ。空っぽだとも言える。そこに自分がぴたっとハマる。同じ自分でもまったく違う自分が帰ってくる現象。位相が違う。何度でも新しくなれる。

先週、知り合いが北茨城にゲストハウスがあるから泊まりに行こうと誘ってくれた。迎えてくれたのは、メキシコから旅してきたイヴァンだった。イヴァンは日本に来るなら長く滞在したいと考えて、このゲストハウスでボランティアしながら、ここに20日ほど暮らしていた。夕方BBQをしようと誘ってくれた。その準備をしていると、お祈りがあるから中断してよいか、と質問された。彼はムスリムだった。イスラム教に興味も多少の知識もあるので、一緒にお祈りしていいか、聞くとぜひと参加させてくれた。

それは静寂の時間だった。目的は祈ることだけだけだから、それ以外はすべてが背景になる。クルマの走る音や風、時刻の変化。日常では感じない時間と空気が流れた。

さっき制作の手を休めて、もうひとつ図書館で借りた「レッドマンのこころ」を読んだ。これは動物記で有名なシートンがインディアンについて書いた本。ここには祈りについて書いてある。

インディアンは無言・沈黙というものに深遠な意味がある...身体と精神の霊の三位一体な完全な平衡状態の表象と信じています。生存競争の嵐の中にあって、あたかも木の葉一枚の揺れ、水面のさざなみほどの騒ぎもみせない沈着・冷静を保つことのできる人...そのひとこそ、たとえ読み書きはできなくても、霊覚者の目には理想的な地上の生活者の模範なのです。

何かを忘れてしまっている。ぼくは作品づくりという行為を通じてその何かに触れようとしている。夜寝て朝起きて気がついた。数十年前までは個人は家族とか会社とか、あらゆる属性に飲み込まれていた。世の中のカタチが変わって、ぼくたちは自分で考え行動できる最前線にいるはずだ。「こうしなければならない」過去からの続きではなく、今ここからの未来を生きているのだから。