いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

何かに抵抗し、生きるために表現をしている

どうして生きるとはこんなにも複雑なのだろうか。それに答えるために表現をしているのかもしれない。なぜ生きているのか。そんなシンプルな問いにも答えられない。ただ曖昧なままに言葉は意味の間に沈んでいく。だからせめても言葉を紡いで、自分なりの進む先をみつけたい。そのために文章を書いている。

1月は北海道で滞在制作をした。滞在制作をするとき、その土地にあるモノを掘り起こす。北海道では、その大地の先住民アイヌのことを知った。偶然にも父が新年に興味ある本や映画のチラシを郵送してくれ、そのなかに『アイヌ通史: 「蝦夷」から先住民族へ』があった。偶然の一致が起きたら手に取るしかない。図書館にあったので借りて読んでみた。久しぶりに読み応えのある本だった。書いたのはリチャード・シドルという外国の人で英語タイトルは「Race, Rsistance and the Ainu of Japan」。見事に日本語訳にはタイトルの「人種、抵抗」の文字が抜け落ちている。

ぼくは、この本をアイヌのこととしてではなく自分の問題として読んだ。つまり、どうしてこんなに生きるのが難しい社会なのか。社会が人を区別して優劣をつけるという構造自体が人を苦しめている。そう読むことができた。

ちょうど最近読んだレヴィ=ストロースの講義本と共通するので、併せてメモしたことを記録しておく。

1.アメリカ人、ヨーロッパ人、アジア人、インディアンのように見た目で人を分類するやりかたは過去のものになっている。それなのに旧来の人種観念がいまもあって、肌や目の色、身長や頭のカタチ、毛髪の質などの特徴で人間が分類されている。しかし地理的分布と人種を一致させることはできない。現在では「プール」と考えられている。プールは場所によって変化して、時間の経過のなかで絶えず変化していく。

 

2.文化は人種という区分につくられるのではなく、文化によってつくられている。人種というものは存在せず、そのようなものがあるという信念だけが存在しており、その信念は排除と支配の前奏曲として、ある集団の思考のなかで、他者を(したがって自己を)構築するために使われ、他の社会集団がその排除に抵抗する手段として自己を定義する(したがって他者を構築する)ために使われる。

 

3.アイヌが人種化、従属化された集団になった歴史的・物質的な状況は植民地主義だった。北海道島の先住民とその南の隣人との関係は、有史以前から存在し、北海道の古代遺跡は西暦紀元前数世紀まで遡ることができる。しかし17世紀から「野蛮」とみなされた住民に対する日本の支配拡張に伴い交易は不平等な性質を持つようになった。「北海道」という領土に植民地秩序を確立した1868年の明治維新後、日本の支配は加速した。

 

4.19世紀後半から20世紀初頭にかけて日本は自らを近代化するとき「人種」という概念は人間集団を区別する「常識概念」として受け入れられるようになった。世界で植民地化が進むなかで「優秀な人種」が「劣等な人種」を征服して支配するという構造が正当化されていった。

 

5.一般民衆にとっては民間伝承の世界観や不浄で人間ではない賤民の存在が「人種概念」の理解を促した。つまり鬼や野蛮な非人間的な存在として受け入れやすかった。

 

6.1890年から1920年にかけて急増した雑誌と新聞では国家と社会の衝突は「生存競争」における「優勝劣敗」という表現で描かれるようになった。なかでも日本における人種的思考の台頭を促進したのはそれと並行していたナショナリズムの流れだった。

 

7.社会的混乱から「国民意識」をつくる。つまり「想像の共同体」として国民をつくりあげるには、すべての日本人を自然発生的な共同体に所属している感覚に組み入れる必要があった。

 

8.「大和民族」として同一化された日本国民は「血」によって定義されるようになった。日本という領土的な区分から「民族」という歴史的・文化的・風土的なものへと変質していった。そして皇祖神にまで遡る皇統に根付いた共通の祖先に由来する血のつながりを象徴する天皇が国民の頂点に置かれ1890年から1900年にこのイデオロギーが完成した。

 

そしてこの流れに抵抗するために

9.文化とともにネーションには歴史、すなわち集団に対して現在における日常の経験の把握を可能にしながら、過去との連続性も提供してくれる、一貫性を持ち理想化された過去の集合的記憶が必要になる

10.自分たちの歴史を編集し、自分たちのアイデンティティを理解し、自らのために歩む

 

まさに自分が表現する原点を知るために、ぼくはあれこれやっている。何かを表現してそれを売るということは、続けるための手段でしかなく、その先には人間という存在の意味を知りたいがためにやっている。