いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

昔話は今。未だ見たことのない既視感ある物語を生み出すこと。

裏山に木を切りに行った。妻は蓮の池で草取りをしていた。もう少しでむかし話のお爺さんとお婆さんになるところだった。  

裏山で炭焼きの師匠と輸入材をストップすれば国産材が売れる話しをした。確かに。少し想像しただけでイメージできた。今まで山を放置していた人たちが一斉に興味を持つ。境界線でモメる。争いや妬みが生まれる。山の整備もしないし生態系にも興味ない人たちが懸命に値段を釣り上げる。

今のままがいいと思った。誰も興味もなく放置されている。持ち主に木を切っていいか聞くと「いいよどうぞどうぞ」と喜んでくれる。価値がないから所有欲が消滅している。平和がある。欲望がない場所に立つと自由を感じる。

家の周りに春が訪れた。訪れるだけでなく滞在している。家の前が春の色彩に。田舎にはそんなことが起きる。街には起こらない自然の彩り。あるがままの自然を愛でる以外に価値があるわけじゃない。妻とぼくは気持ちいいね、と幸せを感じるだけ。競争や評価から距離を置いたとき日常が喜びになる。

何か特別な技術があるわけではない。けれども芸術家をしている。アルバイトのときも会社で働いているときもやりたいことが頭から溢れていた。いつも注意されたり怒られた。ボーっとするな、と。違う。想像している。創造しようとしていた。だから自分にやらせてみた。やれるものならやってみろ。

芸術家として独立するとき、活動が継続できる環境から作ることにした。家賃にお金が掛からないとか、作業スペースが広いとか、余計なバイトしなくても成り立つなど。結果、茨城県の山の集落に暮らしている。成功に向けてステップを踏んだわけでも階段を登ったわけでもない。むしろ流れた。高いところから低いところへ。水になった。潤いを知った。足を知る。

山だから身の回りに自然素材がある。ぼくはコラージュ作家としてスタートした。雑誌を切って貼ってイメージを作った。雑誌のページが木や土に変わった。木には木工や彫刻の技術がある。土には陶芸という技術がある。もちろん絵画にも油絵とか日本画とか技術がある。技術を習う選択肢もある。技術を習うことは、既にそこに答えがある。こういう絵がいい作品だよ。こういう作家さんが到達した世界観があるよ。じゃあ、君はどこまでやれるかな。既に種目が用意されている。もちろんその道を追求する素晴らしさ、到達できない境地がある。

作りながら自分が作られているかどうか。そのためには技術そのものを作ること。失敗と脱線の連続。トライ&エラー。人類史のやり直し。素材は自然から手に入れる。土を焼いてみればいい。どうしたら焼いて固まるのか。その過程を作品にすればいい。なぜならそれがオリジナルだから。人間としてのオリジン。起源からやり直す。

木を削ってみればいい。難しい。割れるしササクレる。でもカタチは作れる。技術の試行錯誤の痕跡。それが美しいと思う。

みんながやっているから自分もやる、ということの反対側。誰もやってないからやってみる。すると誰も周りにいない余地に遭遇する。事実誰もいない裏山で師匠と木を切っている。競争相手もいない。価値や常識が去っていった大地のうえ。自然のなか。芸術以前の原始の方へ歩み寄ってみる。

スリット実験というのがある。分子の振る舞いを観察する。分子は観測されると振る舞いが変わるという。つまり観測される前は幾つも可能性を同時に孕んでいて、観測された瞬間にそれはひとつの現実として現れる。それはスロットみたいなものなんだとイメージしてみる。いくつもの成功や失敗の夥しい可能性の束から一本の糸を引くような。

つまり既知のカタチが欲しければ学んで技術を極める。未知と遭遇したければ、とにかくやってみる。ブリコラージュの発想。文化発達以前。フォークアート。民俗。偶然のカタチを引き当てるなら未知の方を選択する。日本画を習うのではなく、自然から顔料を手に入れて何かを描いてみる。線なのか面なのか。記号。抽象。よいわるいを超えて。無意識はやがて無意味に。

あちこちの未知から引き当てた糸が折り重なってまったく新しい織物になる。未知の文脈を現在に統合しカタチとして提示する。それが現代アートというものじゃないか。宝クジに当たるくらいの可能性の話。でも起こり得る。当たるとは、太古から現在に至るまでのあらゆるカタチのなかで、未だ見たことのないしかし、見たことがあるようなオブジェクトを生み出すこと。