いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活芸術日記2022.5010

昨日は長野県岡谷市の妻の実家から茨城県北茨城市の家まで移動日。クルマで移動するといろいろ考える。どういう訳か、今回の旅は生まれ変わったような感じがしている。ひとつには今暮らしている土地から離れて、今している里山づくりが貴重な経験になっている。草を刈り、山の木を切るという失われつつある営みを生活の一部にしている。旅の間も草刈りのことが気になっていた。ぼくの暮らしはこの土地と一体化している。

家に戻ると、注文していた本「気流の鳴る音」が届いていた。さっそく読んでみるとカルロスカスタネダドンファン・シリーズを読み解く本だった。今の自分にこのインディアンの教えはピッタリだった。

草刈りシーズンが開幕。GW明けに草刈りをはじめるとちょうどいい。草をかりながら植樹した桜の成長を感じる。草刈りを大地が喜んでるように感じる。大地とコミュニケーションしているようで、その感覚はこの土地を愛していることなんだと思えた。

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ここにぼくらの土地は一ミリもない。にも関わらずこの土地を愛する気持ちが湧くのはなぜか。ここに何らかのヒント、鍵があるように思う。

草刈りをしながらこの自由な大地について考えた。ここは限界まで価値が落ちた土地なのだ。限界集落に指定されるほどの。しかしだからこそ、誰もが見落としている価値が輝いている。原石なのだ。

イスラムの女性が姿を布で覆うのは、大切なモノを見せびらかせないことだと教えてもらったことがある。喩えとして「家宝のようなモノを見せびらかせて歩きますか?」と言われた。

この桃源郷が美しく愛おしいのは、秘められているからだ。

このご時世、バズればいいとか炎上するとか、そういう話題になることや数を求める風潮もやがて風向きが変わる。