いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

簡単は複雑だから何度も丁寧に考え直してお返事します

昨日作品を購入したいと電話をくれた人がいた。「明日お昼前からあとは空いてます」と返事した。午前中に手元にある4点を並べておいた。お客さんは作品をひとつひとつ眺めて感想を言葉にしてくれ一点を選んだ。「やっぱり檻之汰鷲といえばコラージュですからね」と言ってくれた。

6月の個展に向けて制作している。妻は色を塗り、自分は下絵やパネルや額を作り彫刻の準備。パネルや額は家を直して手に入れた木工の技術で、彫刻は炭焼きの延長に技がある。どこか学校で学んだことはない。アート以外の経験が作品づくりの技術になっている。

まったく学校で習ってないかというと、そうでもない。大学は人文学部芸術学科だった。つまり芸術論みたいなものを学んでいたことになる。だから自分で作ったものを自分で分析したり論じたりしているのだと気がついた。

最初の本を出版したくて編集部に持ち込みしたとき、作品集なのか、エッセイなのか、旅行記なのか分からないと言われた。絞らないと売れないし棚がないとも言われた。

つくられるもの、そのカタチはどこからやってくるのか。つまり売れるものでなければ誰かに協力を得ることが難しい。しかし、何かを作ろうと考えるよりも先に作られるものは目の前に既に見えている。そのカタチを取り出す作業の場合が多い。売り場を目指して作っているわけではないから、それはたしかに棚なんて存在しない。

たまに、まったく何もイメージがないところから作るときもある。そういうのは誰かに依頼されるものの場合で、それは目指すものがあって、他人の頭のなかにある漠然としたイメージを掴む作業だからそれはそれで難しい。テレパシーや超能力のように以心伝心によって達成される。ぐらいまぐれ当たりな感じがする。

だんだん何の話しか分からなくなってきたけれど、ものをつくる話しだ。とても個人的な。既に目の前に見えているカタチは自分にしか見えていないから、それをスケッチしたり、構図を検討する。彫刻の場合は、スケッチを元に枝と新聞紙で立体にしてみる。これはパピエマシェというヨーロッパの張子技術の応用。良いものにしたいと考えが浮かぶ。良いとは何か。上手いということではない。目が離せないとか、魅入ってしまう、が適当かもしれない。異性と言うと語弊があるかもだけど、ああ、素敵だな、と見てしまう、あれに似ている。つい写真を撮りたくなる景色もそうだ。

どうして作るべきカタチが見えるのか。というのは素材から作っているからだ。自分たちで種を蒔いて咲いた花は、それは既に絶対的に美しい。間違いがない。それを絵にする。木を伐って、薪を割って、そこになんとなくカタチが見えたりする。それをカタチにする。これは超能力でも天才でもない。誰にでも見える小さな魅力をみつけるだけだ。

今日の夜はパピエマシェでシマウマを作った。先週中野区の壁画制作が雨でお休みになったとき、妻がこんなときこそ制作しなきゃ、と言い出した。素晴らしいと思ったが道具もないよ、と返事すると、だからやるの、と返された。流石だ。じゃあパピエマシェだね、と答えた。材料は、枝、新聞紙、段ボール、小麦粉、水、フライパン、火。世界中どこでもやれる。これぞサバイバル・アートだ。

急遽やることになってイメージがなく、いろいろ考えて、そういえばタヌキはまだ作ったことがなかった、身近にいるのに、でタヌキを作りはじめた。その横で妻はキツネザルを作っていて、シマウマの話しになった。シマウマは、ウマよりもラクダに近く、人間に懐かない。シマウマは野生環境でずっと危険に晒され警戒心が強くなった。何度も人間が飼い慣らそうと挑戦したが無理だった。人間が諦めるとは相当だ。つまりシマウマは野生そのものだ。そんなわけでシマウマを作っている。よいカタチをしている。

個展のタイトルを妻と考えた。妻が「そとしごと」と言った。「屋外の仕事ってこと?」「うん。わたしたちの作品は外から来てるから」「なるほど。いいね」

妻から出てきた言葉。その意味を考える。外の仕事。英語では"Outside of the works"かな。調べてみると、仕事の外だから、余暇と遊びを指すらしい。仕事以外。作品以外。

自分が大事だと掴まえている部分を直接言い表わすことができない。生活芸術とは、それを指す言葉だけど、実際には意味が分からないとも言われる。生活の芸術? 生活そのものを作ること。家をつくる、水を手に入れる、土地を使う、火を使う。つまりそんなぼくは画家ではない。大工でもない。彫刻家でも陶芸家でもない。何者でもない。自分だ。みんな生活しているけど、生活家という職業はない。せいぜい生活者か。つまりアウトサイドだ。アウトサイドを表現している。評論家でも小説家でもない。でも文章を書いて本を出している。すべてのカテゴリーのアウトサイドだ。

ああ今日はいい日だった、という気分をつくる。それが一日を作ること。この一日が積み重なって作品がカタチになっていく。作品とは自分自身だ。

ああ、次の本を出したいと構想していたけど、ここに素材が溜まっている。これが小さな魅力というやつ。どうでもいいかもしれない、いや、束になれば、組み合わせや見せ方によっては化けるかもしれない。化学の変化は可能性。誰の今日にも錬金術はまだありえる。期せずして。

一日のなかに人生がある。一日のなかにモノをつくる時間を持つこと。それは買って済ますのではなく素材をみつけること。これが容れ物で器になる。つまり日々作ったものが誰かを満たせばいい。ぼく自身は永遠に満たされない。なぜなら空っぽだから。ただ湧き出して溢れている。もしくは漏れている。