いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

つくるためにつくらない

日々変わっていく今日を生きている。作品をつくるという課題を自分に与えながら、それでも作品をつくるためにつくらないように。「つくるためにつくらない」とは、作品が発生する環境をつくるという技法へと向かっている。ぼくが発案するものではなく、作品となる対象が自ずと現れてくる、そういう創作方法へとシフトしている。これは賭けでもある。生活そのものが表現であると宣言したときから、作品が生活に飲み込まれていくのは分かっていた。あるところまでは、生活が表現だと言っても、どこか意図的な振る舞いになっていた。作った生活が馴染んで当たり前の日々になって、気がつけばわざわざ作品をつくるということが不自然になっていた。

だから任せることにした。だからこの冬は炭焼きを主にやっている。ぼくにとって炭焼きは、太古から現代を繋ぐ生活芸術なのだけれど、社会的には単に炭焼きをしているにすぎない。最近は、表面上の言葉とその言葉が孕む意味の多様さ、その地下に埋もれている意味を味わっている。つまり炭焼きを単なる炭焼きと片付けるのではなく分解して吟味して観察すれば、この行為を通じていくつかの技術の身に付けていると気づいた。

木を伐採する。木を解体する。運べるサイズに切る。薪にする。枝を払う。燃やす。この行為は技術そのもの。これは木彫に転用できる。彫刻を習うのではなく、別の仕事の中から木彫の技術を抽出する。これぞ生きるための芸術。炭焼きを通じて数多くの薪や木に出会う。その中にはこれはと閃くカタチがある。それらを拾い眺め、少しだけ手を入れる。こうして少しずつ木を素材とした作品が生まれつつある。

文章の書き方も変わってきた。次の本を書き始めた。これで5冊目。何か達成した目的を報告するのではなく、書きながら編まれている。やっと自由に書けるような気がしている。

世の中に対して、これまでは自分のようなやり方が有効だと強く信じていた。けれどもぼくも変化していくし、社会の方も変容していく。その過程でいつの間にか自分の方がエラーのように思えてきた。これはバンドの歌詞になっている。「ハック・ザ・システム」というコンセプト。社会をハッキングして、そのエラーを利用して有利に生きる。

あまりにも世の中に「どうすればうまくやれるか」という言説が溢れていて、うまくやらないくてもいい、という気持ちが強くなっている。社会に褒められるように、経済的に成功するように、という方向性に舵を取るのではなく、いかによく生きるか、それを基準にしている。それは半分自然に依拠しているから、半分は抵抗する余地がある。気持ちに。それは音楽やアートや文学、哲学が教えてくれたことで、つまりそれらは生き方を教えてくれていた。自分という頼りない直観を頼り道を歩いていく。すぐに迷うだろう。そのとき、とある誰かの表現が道を示してくれる。ぼくはその足跡を見てホッとする。まだ先に進める。

お金はこの探検の過程に発生したエトセトラが価値になる。生きるためには最低限は確保が必要だ。何が仕事になるかは分からない。やりたいことをやりたいようにやらせてやれば、それは成長する。ぼくは商業出版では上手くいってないけれど、こうして何かを記録するために書くことに於いては成功している。継続するという意味で。息をするように思考して文章を書けるようになった。たまに死なない程度に文章を書いてお金を貰うこともある。

何より、表現を活動を続けるために生活そのものを作ったことが基盤になっている。家賃もない。水道代もない。暖房費もない。生活芸術という活動が集落支援員という仕事になっている。きっと日々は移り変わり、違うカタチになっていくだろうから、ここに今のところを記録しておく。