いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

経験から学んで失敗し続ける成長。

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風邪をひいた。インフルエンザとかウィルスとかあるけれど週末から東京で仕事をして火曜日の夜高速を飛ばして帰宅して起きたら体調を崩していた。高速を飛ばすと書いたけど軽トラックだから3時間かかる。普通は2時間。ぼくは遅い流れのなかを生きている。水曜日から寝込んで、木曜日には頼まれていた空き家の改修をやりつつまた寝込んで金曜日には休耕田の見学に来た人を案内しつつ寝込んだ。体調を崩すのは残念だけれど定期的に年に何回かはこうやって鎮静化する。2023年も終わりに近い。ぼくの40代も終わりに近い。50代に突入する。

芸術を仕事にするため40代を費やした。生活そのものが表現で、生き方を作る人が増えたら社会が良くなると考えていた。しかし自分の道に邁進するほど理想と現実は乖離した。自分の理想と現実は一致しているが社会が進む方向と僕の理想はズレていく。だから表現しなければ生きていけない。

おかげでモチベーションやエネルギーは絶えず湧いている。全然上手くいかないから作戦を練りながら我が道をいく。ありがたい。友達と話したときに気がついた。自分のやり方ははじめから出来上がっていて、その歪さを信じることができず勇気を持てなかった20代。やっとはじめた30代。カタチになった40代。これからだ。

ぼくは学習するよりも先にやってしまう癖がある。学習するよりも先にやるのは常識的にエラー。間違っている。しかしそれはオリジナルでもある。例えば、音楽をやるとき楽器を習得しないまま演奏する。音階を無視して歌う。絵を習わずに描く。陶芸を無視して土器をつくる。和紙の伝統をすっ飛ばして紙をつくる。

全体にエラーを発している。しかしこのエラーが通用する場合もある。カタチになり得る。ほかにあり得ないカタチで。何かを表現するとき、ぼくは未だ見たことのないものに遭遇したい。それらはどこにあるのか。成功の以下や未満にある。

週末は高円寺で小学生にパピエマシェの講座をやった。かなり難しかったと思う。泣き出した子もいた。可愛かった。それでも皆んな動物を作った。痩せたシロクマ、顔のないチーター、とろけたウサギ、潰れたレッサーパンダ。似てないけれど、それらはどれもその動物を表している。その差異に心が動く。子どもたちは疲れたと言いながら達成した。素晴らしい造形を魅せてくれた。

素晴らしさとは成績の良し悪しではない。懸命に作った子はワニの足が取れて泣いてしまった。どうして、どうして、もう嫌だ、と泣いた。よしきにあしきに至るところに感動が溢れた。泣き笑い喜び感謝。

みんなうまれ、いきている。ぼくも。紆余曲折もうすぐ50年経つ。古い側の人間になってしまう。かもしれない。新しくはない。ぼくは失敗している。学習しないから。系統的に学ばないから。でも学んでいる。経験から学んで失敗し続けている。

やっと風邪も回復しつつあって、これを書いている。こんなときだからこそ日記だ。病んだ身体はゼロになって新しいコトバを吐き出す。

系統的な学習による技術とは違う技術について教えてくれたのはレヴィストロース。ブリコラージュ。改めて「野生の思考」を読んでいる。

土器、織布、農耕、動物の家畜化という文明を作る重要な諸技術を人類がものにしたのは新石器時代である。

そんな遥か昔に現代に生きる我々の原点がある。それから今に至るまで創意工夫がされてきた。何のために? 生きるために。ところがその目的を忘れて経済を成長させるために創意工夫がされている。土や火や木は何処へ?それらを使うという原点を経験することで人間は自然について副次的に学習する。現代社会には受け継がれなかったエラーを追体験もできる。ぼくが求めているのは成功ではなく失敗。歴史に受け継がれなかったカタチ。答えがひとつに対して何万とありうる可能性。それをオブジェクト化し作品として提示できればぼくの目的は達成される。歴史を転覆する。技術の伝統をひっくり返す。技術におけるヒエラルキーをぶっ壊す。パンクが好きだ。大袈裟に書いた。けれど事実人類は行き過ぎている。幸せな地点を通過して、まだ特急に乗ってその先を急いでいる。ぼくは各駅停車の旅の楽しさを伝えている。