いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

友達と話した宗教について

バリ島の友達と宗教について話した。遠くの友達も近くの友達も、コロナの影響で距離は関係なくなってる。

インドネシアの90%がイスラム教を信仰しているけれど、バリ島だけは90%もの人がヒンドゥー教を信仰している。ヒンドゥー教は、経典よりも慣習を大切にしていて、儀式とお供え物を欠かさない。以前バリに滞在したときは、クルマにもお祈りすると聞いた。

なかでも、もっとも印象に残っているのが、バビグリンという豚の丸焼きが最高の料理で、お金持ちになっても贅沢はバビグリンの数が増えるだけで、そんなに食べられないから、周りの人に振る舞うのが豊かさになっているという話だった。ここには、生きるための共同体としての宗教の姿がある。

 

けれども日本では、宗教はほとんど消えている。宗教というとほぼ政治だったり、新しい宗教だったり、日本人が長い歴史のなかで共にあった宗教の姿は見えない。どこへ行ってしまったのか。

 

アフリカを旅したとき、タクシーの運転手に何を信仰しているか、と質問されて無宗教だと答えたら、驚いていた。

「じゃあ、一体この世界はどうやってできたか知らないのか? なんてことだ。教えてあげよう、神さまが創ったんだよ」と話してくれた。運転手さんはキリスト教だった。

 

ぼくの祖父は、朝昼晩、仏壇に向かってお教を唱えていた。浄土真宗だと聞いたことがある。けれどもぼく自身は具体的な何かを信仰する習慣がない。

 

それでも宗教には興味があって、というのも聖書は、物語として最高傑作だ。とくに旧約聖書に記された物語は、それが事実なのか空想なのかを超えて、これ以上ないスケールでこの世界を描いている。ノアの方舟バベルの塔、アダムとイブ、リンゴと蛇、どれも最高に面白い。

 

今読んでいる「ツァラトゥストラはこう言った」は預言者の形式を借りて著書ニーチェの思想が伝えられる。これも聖書をかなり引用している。この設定も漫画ほど単純明快で、そのうちこれをネタに小説を書きたいと思っている。まあ、そのうちとか言ってないで、すぐに始めた方がいい。

 

宗教でもっとも好きなエピソードがイスラム教のはじまりだ。商人のムハマンドが洞窟で姿のない人間ではない何者かに話しかけられ、驚いて逃げて帰り、妻に悪魔に話しかけられたと言うと、それが悪魔だとどうして分かるのか、戻って話を聞いた方がいい、と催促されて、神の教えを聞いた。それがコーランになった。その布教を親戚からはじめて、街に広がり、隣街へと拡大していき、長い年月を経て世界三大宗教のひとつになっている。

しっかりと先行して存在していたユダヤ教キリスト教との差別化をしていて、前の二つは神の教えを聞いた者が信仰の対象になっている。決してそれは神ではない。神を信仰しなさい。このイスラム教がほんとうで最期の教えだ、と説いている。

 

イスラム教とはコーランを信仰することで、それだけではカバーしきれないので、新たな解釈をすることで時代の潮流を乗り越えてきた。ところがなかには、深読みが過ぎて、さらなる宗派へと分裂して対立が起きている。新たな解釈を探究するけれど、それは死と隣り合わせで、間違えば神の言葉を利用したことになって、死刑にされてしまう。宗教内ではそんな戦いがあったりもする。そんななかでイスラム神秘主義とは、コーランの教えを深く読み解いて、そこに書かれていないことすらも、教えとして解釈していく。究極的には、自分自身のなかに信仰するべき声があるという。

 

ぼくは神という存在を宗教が描いているものとは違った感覚で捉えている。ある意味でイスラム神秘主義の自分自身のなかにある直観に従うことに、生きるという点では、進むべき道を照らしてくれる何かがあると思っている。

あと仏教については、習った訳でもないけれど、日本人だからどこかに染み付いているだろうし、茶道からとても教わることが多い。岡倉天心は、明治時代に「茶の本」を英語で書いて日本人にとっての芸術観を西欧に伝えた。

どうしてお茶なのか。天心は茶道そのものを伝えたかったのではなく、それまで日本には存在しなかった芸術という概念をもともと日本にあったもので伝えようとした。というのも「アート」いう言葉が明治時代に輸入されるまで芸術という概念は存在しなかった。浮世絵とか陶器とか書とか、それぞれの表現はあったけれども、それらをまとめる概念がなかった。だから天心は、茶道を代わりに持ち出して、あの本を書いた。あの本には、アートが輸入される前の日本人の芸術とは何かが書かれている。そうやって読み直すと、自分のなかに西欧とは違う芸術の血が流れていることを知る。

今では型式化してしまった茶道の、侘び寂び、それを探究するその奥に仏教がある。竹と木で作られた鄙びた小屋を茶室とすることや、名もない陶工がつくった古くて歪んだ茶碗を傑作とすることには、いまの日本人が忘れてしまった信仰の姿を感じることができる。贅沢とは真逆の、美しいと醜いを超えた、貧乏人も金持ちも、誰もが涅槃へと到達できるような、そういう芸術的な態度が茶道のなかに埋まっている。

 


だから、自分が追求している生活芸術は、宗教にも近い態度だと思う。けれども、それは自分のなかでの信仰であって、誰かに伝えるものでもない。宗教は、ともすると残酷だったり凶暴になりかねない人間を抑制するための、道徳だったのだと思う。けれども、その教えを説くものたちが、それぞれの都合で解釈をし続けて、何やら神様に近しいようなフリをして、そのような場所に居座って、宗教そのものの教えを台無しにしているように見える。偉い人間なんてひとりも存在しないのに。その椅子から降りて泣いている人を救い給え。と言いたくなる。


ニーチェはこう書いている。

「どうして金は最高の価値を持つようになったのか。それは金がありふれたものでなく、実用的でもなく、光を放ってそれが柔和だからだ。金はいつも自分自身を贈り与えている」

 

自分自身を贈り与える。

自分が輝きながら、その輝きで人に価値を与えるようなことだろうか。その輝きは、純粋だから光を放っている。純度が高いゴールドになることは難しい。石ころでもなれるだろうか。仏教はその問いに対して、イエスと答えてくれる。