いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

見たもの聞いたもの経験したことが蓄積されて「わたし」がつくられる。

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本が好きで、読むのもそうだし、本というモノ自体も、読書という体験が好きだ。文字が書かれた紙が束になっていて、文字を追ってページをめくるうちにその世界へ没入していく。それが読書体験だと思う。昨日読み終わった「意味の深みへ」井筒俊彦著は、まさにそういう本だった。簡単に言うと自己と世界について東洋思想を軸に世界の宗教との接点を確認しながら読み解いていく。哲学とか思想が好きならおススメしたい。

いま、自分の作品集をつくっていて、過去から現在まで約15年分を整理している。初期はアートに対するイメージが洪水になって、壮大すぎて決壊している。まあ15年も経てば、それなりに評価できるところもある。「意味の深みへ」を読んでいて思い出したのが、井筒さんの思想に影響を受けていたことだった。井筒さんの本との出会いは、センセと呼んでいる師匠のひとりがフェスで会うと、音楽に没頭して踊っているとふらっと現れて、ヤバい本を教えてくれる、そういう遊びをしていたときがあった。センセがそうやって遊んでいた。そのときに「意識と本質」を教えてくれた。

思想や哲学とは、井筒さんの表現を借りていうならば、深層へと潜っていくことだ。それには段階があって興味がある人なら、一緒に潜っていける。まるで海の底の闇へと。深い底は闇だから、光はまったくなく、岩とか魚とか貝や珊瑚、何かがあっても区別することすらできない。意識の深層とはそういうところだという。それは無ではなく描写するなら「混沌=カオス」だという。真っ暗で何もないけれど、そこにはすべてが闇に溶けて存在している。無だけれど有る。世界はそういう混沌からはじまった。すべてが溶けてお互いが区別つないような闇に「光あれ」神がそうコトバにした。光はモノを照らし、モノはその姿を現し、区別されるようになった。その区別するという事が「コトバ」だという。

世界は、はじめからすべてが混沌のなかに混ざり合って存在していて、認識したときだけそのカタチになって現れてくる。自分の内面にも世界があって、仮にインナースペースと呼んだとして、そこには見たもの聞いたもの経験したことが蓄積されていく。コトバにもならず意味も持たないまま沈殿してく。無意識のうちに堆積したモノ・コトが人格や性格、さらには人生をつくるという。

この本を読んで、自分自身がスクリニーングされた感じがした。スクリーニングとはいま思いついた言葉だ。映像を投影するように自分を客観的に見ることができた。人間は等しく24時間を与えられていて、現代社会ではその自由が保障されている。誰にもその時間を奪うことはできない。けれどもぼくたちは、その与えられた資源ともいえる「時間」を売り渡してしまう。サービスと快楽に委ねてしまう。

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人間とは透明な存在で、なんでも受容できる器だ。人間が器を扱うのは人間が器そのものだから発見できたのだと思う。仮になんでも入れられる器を持っているとして、そこに何を入れるか、その自由が与えられているのにぼくは、器を美しくするということを忘れつつあった。器の外見を飾る人もいる。それよりも器に何が入っているのか。何を入れているのか。見るもの聞くもの経験すること。ネットの世界を覗き見しては、世の中の不正に怒ったり、誰かがした失敗を鑑賞したり、誰かの不平不満の断片を器に放り込んでいた。井筒さんの言葉を追って「意味の深みへ」を旅したあと、自分という器の濁りを洗い流したくなった。すごい本だ。

1日は24時間。生きた時間は増えて、生きられる時間は減っていく。呼吸をするようにぼくたちは見たこと聞いたこと、経験したことを養分に人生をつくっている。いつか自分のテーマでもある「生きるための芸術」を思想として本にまとめたいとも思った。木彫を習おうとも思った。宮本武蔵はその奥義に「無駄なことをしない」と書いている。いい作品をつくるように、自分自身をよくすることができる。無意識のうちに堆積していくモノ・コトが反射して鏡のように「作品/自己」に投影されていくことを忘れないために、ここに記録しておく。