いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

自然/生活/社会。このバランスを欠いているもの。ぼくの暮らしも街も。

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文章にまとめることができない。そもそもまとめることが間違っている。うまくやるべきという圧が機能してしまう。シンガーソングライター早川義夫のアルバムに「カッコ悪いことはなんてかっこいいのだろう」というタイトルがある。

日々起きている出来事のなかに生きている。ひとつひとつには繋がりが見えない。感じることしかできない。出来事は言葉がひとつひとつ区切られるように離れている。そのバラバラな連続のなかを縫うようにして行為している。英語のdoを日本語でなんて表現するのか。ぼくの場合は、そのdoがアートであり表現だから、それらを縫い合わせる必要がある。日々の生活の断片を縫い合わせたら何が表現されるのか。美しいのか意味不明なのか、それがどんなタペストリーになるのか。

その景色を追求するうちに、自分が表現したいのは人生そのもので、つまり日々の生活そのものを作ることになった。だから、まとまるはずがない。バラバラなものをつなぎ合わせているのだから。

波に乗るとき進む方向に顔を向ける。サーフィンから学んだ。波乗りだけじゃなく、いつでもどこへ向かうのか、自分がその未来を見る必要がある。見ると言っても、水晶を覗くとか占ってもらわなくても、自分が行きたい未来をイメージするだけのこと。スポーツは思考と運動を一致させてくれる。これが広義のアートでもいいだろう。だからサーフィンをアートの文脈に引き摺り込む。日常の断片をアートへと変換してみる。翻訳できるだろうか。

海外でアート活動をしたい。友達にそう話したり、この先どうしたいか質問されたときに、そう答えている。それは人生のときどきに起こる波、グルーヴを掴むための行動。最初に口にするときは、少し恥ずかしかったりする。そんなことを考えているんだ、と。波乗りだって恥ずかしい。ヘタなんだから。しかし、すぐに慣れるから問題ない。そんなことはどうてもいい。ぜひ言ってみるといい。自分の願いを。

生活を芸術にするヒントを頂いたのは、宮本武蔵五輪書を読んでいるときだった。そこに「日常が戦場なら、戦場が日常になる」と書いてあった。つまり日々を戦場のつもりで生きれば、戦場もまるで日常、当たり前の行為だろ?慌てることも構えることもない、ということだ。じゃあ、日常が芸術だったら? 

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最近知った花道家の川西一草亭という、大正から昭和にかけて活動し、生花を中心に文章や書や絵など瓶史という雑誌も手掛けた人がいる。明治から昭和にかけて、日本人の考え方や表現は大きく変化している。その架け橋に発見するべき何かが隠れている。この人の文章のなかにも、生活と芸術に関する記述が表れている。

一草亭さんが言うには、日本の家屋は、畳だけで椅子もなく、できるだけ物を少なくし、床の間に飾るモノを見て貰うように配慮されているという。なるほど。

床の間は元々祭壇だった。花を供えて朝夕礼拝した。足利将軍の時代らしい。その花は極楽華厳を表すものだった。だからそれをできるだけ清浄にして、できるだけ美しくあるべきだと考えた。それがわれわれ日本人の生活を芸術に接近させたという。

日本の生花を見ると、ただ美しいだけで無く、花の咲かない裸の枝を生けたり、木の実を生けたり、時によると枯れ木や枯れ草も生けたりする。生花を見慣れない外国人からしたら、何処が美しいのか解らないかもしれない。これは日本の生花が、花の色よりも姿に重きを置いているからである。もっと進んでいえば、日本の生花は自然の生活の一片を描き出そうとしている。

自然のなかに神聖があり、それを生活のなかに持っていたことが分かる。現代ぼくらの暮らしに神聖があるだろうか。神が何かという議論は置いとくとして。

こういう文章もある。

人間の生活を描いた演劇や小説は世界共通のもので、あらゆる国民がそれを持っているが、その人間の背景になっている自然の生活を実際の木や草で描き出した生花と、日本の庭園とは日本人だけしか持っていない特殊な芸術である。これは日本人が特別自然に親しみを持ち、自然を人間の如くに解し、その生活が人間の生活の如くに目に映るからである。

何回もこの文章を読むうちに、自然の側の生活という文脈が読める。いま久しぶりに渋谷にいて、昨日書いた文章に書き足している。自然/生活/社会。このバランスを欠いている。ぼくの暮らしもそうだし、渋谷の街もそうだ。ここに自然のリズムはない。9月太陽はまだ夏のように燃えている。

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ぼくが本を読むのは、自分が感じていることを言葉にしている先輩に出会うためだ。もしくは、気づいてなかったことを教えてくれるような。しかし、ただ本を読んでいるだけじゃ役に立たない。実践に使っていかないとそれは技術にならない。生きた技術にするために。

来年はアイルランドでの展示が決まっている。願ったら叶った。ぼくの生活は自然の側にある。だから社会的な予定が空白のままになっている。本来自然のなかに生きるがぴったりハマって人間は生き延びてきた。そこから抜け出したのが昭和、平成だろう。自然から社会のシステムの側へ。

生きるとは何か、探究していくうちにぼくは自然の側に寄っていった。だから願いを言葉にして、誘いがあれば、社会に乗ることができる。予定がないから、やっている競技がないから新たに競争の波に乗ることができる。その波は自分たけが乗るものだから、何度でも挑戦できる。

SNSに海外で展示をしたい、と目標を投稿したら、フィンランドのレジデンスも知り合いが紹介してくれた。これは応募案件。9月22日が締め切り。

一草亭さんは、生花を毎日やっていて、そもそもの花の魅力が分からなくなった、と書いている。だから花について断定できない、と。そんな自分よりも、すごく飢えた人が食べ物を食べた感動のような、一般的に花に触れてない人の方が意外な真実を発見するかもしれない、と。

すごく納得する。ぼくもまさに同じで、毎日生活を芸術にしようと取り組むばかりに、どこからどこまでが制作や表現なのかが分からない。だから順を追って何かを伝えることができない。最近はそれに困っていた。バラバラの出来事が関係性を持って繋がってしまう。それをつなぎ合わせる文章が書けなかった。

常識的に分類してしまっていた。サーフィンは遊びだとか、草刈りは地域貢献だとか、最近絵を描いてないから、制作をサボっているとか。

ぼくはコラージュしている。日々のあれこれを素材として発見し直している。絵を描くことだけではなく、生活そのものを操作しているから、作っているのか、作られているのか、混沌して、主客がフィードバックを起こしている。しかしこれは井筒俊彦の哲学に接近しているかもしれない。掴み切れない矛盾のなかに層を貫くバランス感覚を持つ。

草刈りしてランドスケープを作ることは、自分の労働もまた素材なわけで、それは日々の風景の一部でもあり、それを作っている自分自身も作品の一部になっている。例えば絵画なら、その画材、色や紙、筆なども自作しているようなことだ。実際、自然にあるものから紙や墨を作るようになった。糸も制作中だ。たぶん、糸に向かうことで、撚り合わせる、縫う、という技術を体感しはじめている気がする。

フィンランドでの滞在制作の企画を考えてみよう。田舎に行ってみたい。フィンランドの田舎暮らしはどんなものだろうか。料理や家、習慣、自然環境、どれも自分が知らないものだろう。へー、これフィンランドなんだ、と感じるものがたくさんあるだろう。その無垢さを表したい。今知ってるのはサウナぐらいか。だから田舎に滞在して、興味を持ったものをリスト化して、それらをさまざまな手法で作品にしたら、外側から見た間違いだらけのフィンランド像が立ち上がるだろう。絵画、コラージュ、オブジェ、文章、映像、写真、でそのなかにきっとフィンランドの人も忘れているような普遍的な伝統性が明らかになるだろう。伝統とは社会と生活と自然を貫く糸だ。

直線として何かを記述する必要はもうない。むしろバラバラな出来事が影響し合って、未来を映し出している。ぼくは、それを見失わないように縫い合わせ、記録し、地図を描き、進む先を見る。

おかげで、やっておきたい仕事を思いついたのでメモしておく。(自分自身も常に変わっていくから閃いたときに書いた方がいい)

生活が芸術になったらどうなるのか。10年近くやってきて、これはこれでひとつの道なんだ、と感じている。道とは時間軸があって過去から未来へと通じている。ぼく個人の過去もあるし歴史という大きな過去のなかに生活と芸術について考えたり表現してきた人たちもいる。そのことについてまとめるのも先へ進む足場として役に立つだろう。

とくに日本人として海外で活動するなら、生活と芸術というコンセプトは強力なツールになる。そういう経緯で、西川一草亭に注目した。生活を芸術にした人、それを表現した人は、宮沢賢治トルストイ柳宗悦、ウィリアムモリス、ゴーギャン岡倉天心、イギリスのパンクバンドcrassは生活パンクだ。グラフィティ文脈から零れるヒップホップのアウトサイダーRammellzeeも登場できるかもしれない。探せばもっと想い出すだろうし、哲学者の鶴見俊彦も、民俗学宮本常一も並べられる。あと自己のテクノロジーとしてミシェル・フーコーも。課題である自分自身に触れないで何かを書く練習にもなるし、これは生活芸術論として提案できる。

とりあえず、フィンランドのレジデンスに応募してみよう。