いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

つくること日記

今日していることは、これまで自分がしてきたことの延長にある。まったく新しいことを突然に始めることはあまりない。

制作している肖像画は、よい新作に着地できそうだ。ベニヤと木材でウッドパネルをつくり、額を鑿で削る。ウッドパネルにペインティングとシルクスクリーンをする。できるだけ作れるモノはつくる。持っている技術を投入して、できるだけベストな品をつくる。作品はいつも王様に捧げる気持ちで作る。なんなら神と言っても構わない。奉納するために作る。制作することは1日を祈りに変えてくれる。

作品の制作が生活の中心にあって、その他にストレッチや筋トレ、英語の勉強、文章を書くこと。これを全部やれたら、充実した1日になる。それ以外には、音楽を聴くこと、バンドのことを考えるという活動もある。あと本を読むことともある。どれも生きていくうえでの歓び。

自分にとっての表現は、混沌としている。整理されていない。けれどもアウトプットは、作品と文章がメイン。それをするために筋トレやストレッチやランニングや読書、音楽がある。

そもそものはじまりは、読書にある。本だ。絵本とか漫画とか。その延長にアニメソングとかの歌。ここに全部揃っている。文章、絵、音楽、キャラクター、色、モノのカタチ。ヒーロー。物語が創作の根源。

夜は本を読む。昨日は、夢枕漠原作、谷口ジロー絵の漫画「神々の山嶺」を読んだ。チフミは、手塚治虫の「ブッダ」を読んでいた。どっちも生涯ランキングに入る傑作。今夜は井筒俊彦さんを特集した本を読んだ。ここに、岡倉天心鈴木大拙井筒俊彦という系譜があると書いてあった。大学時代の恩師、上野俊哉も文章を掲載していた。そもそも上野さんに井筒俊彦を教えてもらった。今はかつて岡倉天心が拠点にした北茨城市に暮らしている。そして舟をまた作ろうとしている。天心も、ヨットと和船をハイブリッドにした舟を制作している。

鈴木大拙は、音楽を聴き漁ってるうちにジョンケージを知り、それで本を読んだ。それで禅を知った。信仰というよりは、生きるための知恵として仏教も取り入れている。考え方に。今年になってから、姿勢の中心を取るために座禅をしている。左足首を自分で治すことを試みている。こうした影響はモノのカタチや見方として作品に反映されている。なぜなら、ぼくは日本人だから。

オリジナルであるということは、根源にどれだけ素直に従うか、ということだと思う。それがジャンルや肩書きに収まらなかったとしても、己の中に流れている血脈のような影響、影響が星座となって照らし出す道を歩く。なんなら芸術と呼ばれなくても構わない。

奉納すると書いたけど、神といっても、いろいろある。偶像や外の神ではなく、ひとつ言えるのは、それは自分の中にあって、内なる声に耳を傾けて、その声を聞くことだ。本で読んだことがある。そう思ってやってみると確かに聞こえる。

そいつが「走る」と決めたら走る。「絵を描く」と決めたらやる。「文章を書く」と決めたらやる。自分を思い通りに動かすことができれば、人生の数多くの困難を克服できる。パーフェクトに操ることができれば金メダルを獲れる。とてもシンプルだ。しかし、それが難しい。だからいつも矛盾する。だからいつも矛盾を心掛ける。

自分を動かすこと。表現することで生きていく基本。そんな日々だ。表現のなかのいくつかが社会の役に立ったり、誰かのニーズを満たして、お金として対価を得る。そうやってかろうじて生きている。いまは景観をつくる桃源郷づくりが主な仕事になっている。奇跡の仕事だ。そのおかげでコロナ禍を表現者として生き延びている。感謝。

目指している表現は、簡単なようで難しい。お金を得るために作るのでなく、評価されるために作るのでもなく、自分を形成してきた影響を混ぜ合わせて、捏ねて、そこから何かを創造して社会に提示してみる。神様が土を捏ねてアダムを作った神話のように。それは自分を形成してきた文脈の最前線であり、また誰かを形成する糧になることを願う。表現が、予言のように時間的にも先取りして提示したい。アメリカの作家カートヴォネガットは、芸術は炭鉱のカナリヤであるべきだと書いている。最前線で危険を知らせる役割をする。意図をも超える純粋さ、透明だから輝きが生まれる。クリスタライズド。だから、作るというより、環境や状況によって必然的に作らされている。吸収してきた影響が川となって流れている。そこから、掬い上げるカタチを。

景観を作るために竹藪を伐採することにした。そこに大量の竹がある。竹を素材に作品をつくることにした。頭の中で舟を構想している。アイルランドのボート、カラックをモデルに竹と木材での制作を企んでいる。こうやって素材と出会うとき、制作は未知の冒険となる。竹の筏はあるけれど、竹の舟はあまりない。けれども太古であれば、そこにあるものを駆使して便利を生み出したに違いない。道具も素材も発達した現在、素朴で新しいモノを生み出す可能性を提示したい。新しい民族である。