いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生活芸術日記2022.0508

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名古屋の展示最終日。撤収のため妻の実家から移動。空き家プロジェクトで通った津島の長屋に立ち寄った。長屋のお隣のお世話になったご夫婦とランチした。ちょうど津島の知り合いから連絡があって合流。散歩して、移民問題に取り組む真野さん宅に寄る。テレビのドキュメンタリーの張り付き取材中だったけれど急遽ミニライブで二曲演奏してくれた。

今回何のために愛知で展示したのか。津島のその後を見る旅、妻の実家のお手伝いをする旅だったのかもしれない。津島に暮らした7年前は、根なし草でどこにでも行けたけれど、いまは土地を相手にプロジェクトをやっているから、どこか気にしている自分がいる。北茨城という土地が自分の生きる大地になっている。

 


展示会場で来場者の方が本を手に取ってくれて、話したいと声を掛けてくれた。その人は障害者関係の仕事をしていて、作品からそういう印象を受けた、これは何か、と質問してくれた。障害者が作ったモノを並べてコトバを与えた作品だと思ったらしい。

とても嬉しかった。技術があるからやるのではなく、技術がないところから立ち上がってくる造形が見たい。そういうカタチをつくりたい。熟練しているからやるのでもなく、その習熟度を披露したいのでもなく、つくるという行為の再演をしている。「できる/できない」の間には、社会的に言えばハンディキャップがある。できないの側にはハンディキャップがある。何ができないのか。しかし優れることができないだけで、「する/しない」に置き換えれば「する」ことはできる。

ぼくは満たされていることを表しているのではなく、欠落を表現しているのだと思った。作品を展示することは、鑑賞者からの眼差しコトバを与えられること。作品はそうやって社会に出て成長する。