お祭りが終わった翌日は、特別支援学校でコラージュ体験をやった。前回はとても盛り上がり、終わらなくて、その続きの2回目の授業だった。コラージュには正解はなく、失敗もないから、手を動かして、つまり切って貼ってを繰り返せば、そこに何かしらかの画面が現れてくる。何でもいい。子供たちに刺激を受けて自分も久しぶりにコラージュをやった。夢中になって紙切りにハマっている子の破片をこっそり集めて並べてみた。なんとなく、花が咲いているような画面に仕上げた。授業の終わりに、コミュニケーションを取るのが難しいと言われている子が、指を二本出して、チョキチョキやってみせて、コラージュをもっとと要求してきた。支援学校の先生も驚いて、みんな暖かい気持ちになった。
午後は英会話教室。イギリス人の先生をみつけて習っている。習っているというか話しをしている。6割ぐらいしか分かってないときもあるけれど、まあ何もしないよりずっといい。先生は、民泊をやっていて、事業を拡大したいと話した。
先生はもっとお金があれば大きなことができる、と言う。知り合いが自分で500万円出せば、プラス500万円は無償で提供される制度を利用している。俺もそれがしたい、と言う。ノリオも資金を調達して事業を大きくするべきだ、と言った。そんなことは考えてもいなかった。お金があったら、自分のやりたいことができるのだろうか。むしろお金がなくてもやってしまっていて、その結果がお金になれば、それでいい、と答えた。
必要とされるから、お金を払う人がいるわけで、事業の大きさは関係ないと思う。むしろ、事業を拡大することが目的になっているようにも思える。うまく話せたら次回はそう説明してみよう。
事業がどうこうよりも、やらなきゃいけないことがある。自分の仕事、炭焼きだ。今シーズンを焼き始めなければニーズに応えられない。
木曜日は丸一日予定がないので、朝から森に入って木を切った。炭焼きの素晴らしいところは、切った木の枝まで使うところ。木をバラシながら、彫刻の材料にしようと閃いた。カタチに触発された。気がつけば、一本の木を倒すと、その活用が、ここでは、いくつもの働きに枝分かれする。炭はエネルギーになる。売ればお金にもなる。木は薪にもなる。彫刻の材料にもなる。作品になれば売ることもできる。材料を買ってこないで、ここにあるものを使うことでコンセプトが生まれた。環境芸術だ。ありそうな言葉だけれど、ここでは木を切れば、景観づくりにもなる。実際、いま木を切っているところは、地域の人が桜を植えたいと言っている。
知り合いのアーティストから、それはぼくのやりたい仕事ではないとか、あの人とは仕事したくない、という話しを聞いた。もう少し詳しく聞くと、作品を売っているわけじゃないから、一般の人との繋がりより業界とのネットワークが欲しいと言う。すでにお世話になっている人がいるから、その人と仲悪いところとは仕事をしたくない、とか。
何のためにアートをしているのだろうか。しかし、その人はそのやり方で仕事を続けているし、ぼくよりもアート業界にいる。つまりアートのためにアートをやっている。英語の先生も事業のために事業をやっている。それで大きくなるのだろうけれど、なんだか、どちらも不満が多い。
ぼくは木を一本倒して、暖房にしたり、薪割りして汗をかいたり、彫刻したりして、何かカタチにして、それを誰かが喜んでくれたら気持ちがいい。そういう気持ちでいられるのも、この環境のおかげなんだと思った。
簡単に「環境」という言葉を使うけど、もう少し詳しく書くと、それは生態系のことだ。自分を取り巻く生態系。消費や生産はもちろん、家族や家や仕事、自分に接触するあらゆるものが自己環境に含まれる。この自己環境を構築するすべてをアートだとするなら、人間は自然へと必然的に関わるようになるだろう。なぜなら、人間は生きるために自然が必須だからだ。それなのに自然と一次的に関わるのをやめ、自然から離れた街へと快適さを求める。それは快適ではなく、消費と生産のサイクルから打ち出される広告のイメージだ。それは人間本来が持つ快適さではない。自然と関わらない代わりに社会の煩雑さに足を取られる。そんなことを書いても誰にも響かないかもしれない。しかし50年も経てばやがて明らかになる。
いまでも明らかなのは、暮らしは、たいして山のなかではないけれど、それでも街から離れ、鳥の鳴き声や、風の音、火を焚いたり、犬と散歩したり、一日のほとんどを自然のなかで過ごしている。人の噂や悪口も聞こえてこない。その心地よさ。ただし油断はできない。自然も社会もどういうわけか厳しい。どうして厳しいのか、いつか知りたい。まあ聖書のむかしからそうだ。どうして適当に笑って暮らせないのか。
それは何か、やっぱり自然だからなんだろう。だから、この自然というものについて、今一度考えてみたい。メルロポンティのコレージュドフランス講義「自然」を図書館で取り寄せた。
今日は、小さな公民館での地域の展示に参加した。山隣の集落には、日本画家、陶芸家、舞踏家などの先輩作家たちが暮らしていて、特別枠で地域の展示に招待してくれた。
陶芸家の先輩が「知り合いに営業がすごい奴がいてさ、俺がお皿100枚焼いたって喜んでたら、それは作業だよ、仕事してないよね。仕事ってのは展開を考えて実践することなんだよ、って。それを聞いてからは、次はどんなことしようかって人に連絡したり、ギャラリーに顔だしたり、そうやってるうちに展開していくんだよね」と教えてくれた。
癌で入院している愛知県の空き家プロジェクトでお世話になった家主さんが、SNS経由で絵の画像を送ってくれる。病院で暇だからタブレットで絵を描いているという。お世辞にも上手いといえるものではないけれど、そんなことよりも、本人が絵を描くことで時間を費やし、その過程で何かを発見したり、考えたりして、その行為自体が本人を活性化している、そこには創作行為のチカラそのものがある。それでどうこうとかなく、本人は閃きをタブレットに描いている。周りに何も価値を持たないとしても、その本人には生きるエネルギー源になる。その純粋さ、どこにいかなくても、何にもならなくても、そのチカラが自分を活かしてくれる、そのチカラを忘れないようにしたい。