いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

生きること自体が表現だ。

「苦しみと喜びが同時にやってくる」
と笑って話してくれる神永さん(84)が新しく桃源郷づくりに参加してくれることになった。休耕田に真菰(まこも)を植えてくれる。そのためにトラクターで耕して肥料を蒔いてくれた。

真菰は縄文時代から食べられているイネ科の植物で、その実はワイルドライスと呼ばれインディアンが食べていた。とにかく古い時代の食料だった植物で現代ではマコモダケとして食材になっている。マコモダケとは不思議な現象で、真菰に菌が入って茎が肥大化して、その部分を食べるから、病気になった部分を喜んで食べているような奇妙さがある。

ぼくは、生きるための芸術をテーマに追求してきて、その過程でサバイバルアート、社会彫刻、生活芸術、それぞれのコンセプトに枝分かれしていった。どこへ行こうともすべてはコラージュというアート技法の応用にある。それは文化人類学者のレヴィストロースが取り上げたブリコラージュというコトバで説明できる。

それぞれを目次に立てればそのまま本を書ける。1)コラージュ 2)生きるための芸術 3)サバイバルアート 4)社会彫刻 5)生活芸術 6)ココニアル 

アイディアが浮かぶのは瞬間だけど、カタチにするには時間がかかる。その前に、去年の夏にPCがウィルス感染して消失したデータ「22世紀の芸術家たちへ(仮)」を復活させなければ、とずっと思いながらはじまっていない。というのも、その作業よりも目の前に炭焼きという作業があって、それが終わっていない。

直観だけれど、炭を焼くという行為のなかに太古から現代まで続く芸術の原点があると感じていて、その面白さを伝えるために映像作品をつくっている。撮影は友人に依頼した。いま半分くらい撮れただろうか。

今日は、ついに廃墟を改修して暮らしをつくるプロジェクトD-HOUSEが最終章へと突入した。コツコツとゴミを片付けて、手作業で運べるものは最終処分場へ運搬してきた。けれどももう動かせない漁業の網が山になっていて、それに瓦礫と石もゴロゴロ残っていた。

このプロジェクトは「目の前を美しくする」。これをテーマにしている。ひとりひとりの目の前が美しければ、世界中の至る所が美しくなる。自分の目の前にある光景に責任を持たずにどこか遠いところばかりを求めた結果、いまの社会になっている。

だから自分の目の前と徹底的に向き合って、その光景が愛おしくなるほどまで触れ合っている。現実を作り替えること、これを社会彫刻と呼んでいる。ヨーゼフボイスが提唱したコトバだ。それを応用して実践している。

網がユニックで運ばれて地面が出てきて、いよいよプロジェクトのフィナーレが近くなって嬉しい気持ちで満たされている。

D-HOUSEプロジェクトは、瓦礫、タイヤでペインティングした作品、シルクスクリーンでプリントしたパーカーなどを販売してお金をつくって、そのお金で手に負えないゴミを片付けるという企画だった。作品が売れれば現実世界が少しだけ美しくなる。約2年でこの企画が終わりを迎えようとしている。

継続中のプロジェクトを抱えていれば、日々の暮らしのなかで何かを作り続けることができる。

D-HOUSEプロジェクトが発展して「桃源郷プロジェクト」へと拡大している。これは、ぼくが暮らしている北茨城市里山の景観をつくる企画だ。桜を植樹して景色を作っている。限界集落をアートのチカラで再生するプロジェクトだ。いまやっている炭焼きは桃源郷づくりの一環で、この集落にあった壊れた炭窯を再生したことをきっかけにはじまった。ただの炭焼きだけれど、もう炭焼き自体が保存するべき伝統文化の領域に片足を突っ込んでいる。ぼくはその技術を継承している。

大地のうえに表現している。だからパソコンに向かう時間が減っている。作品はつくっている。廃墟を再生した住宅も炭窯も大地のうえにある。植樹した桜も梅も大地のうえにある。ところが美術館やギャラリーは自然物を展示させてくれない場合がある。美術品にとって虫やカビが大きな問題となるからだ。もちろん建物のなかで火を焚くこともできない。真菰も育てられない。

とすると逆説的に、ぼくのしていることは美術館やギャラリーに入らないから芸術ではないということになる。だからこそ、ぼくのしていることが芸術になると確信している。

アートとはコントのように型式に収めて展示することだ。それは理解している。だからと言ってやりたいことをやらない理由にはならない。アートよりも先に生きるためにやるべきことがある。その活動全体が自分の表現であって、展示されるのはその一部分だけしか提示できない。展示できるフォーマットとして研ぎ澄ましカタチにしたとき現代アートになる。いま5月のグループ展のためのインスタレーションを準備している。

桃源郷プロジェクトも三年目になる。大地のうえに自然環境のなかにあるプロジェクトだから、季節の移り変わりのなかで、毎年成長していく。もうダメだなと諦められていた梅の木にもやっと花がひとつ咲いた。その梅の木を作品にしよう。現実の景色を作って、それが絵になる。空想を現実にする。社会を彫刻する。

この集落にたくさんの鳥がいる。それに気が付いて、望遠鏡を買って鳥の観察をはじめた。現在進行形のコンセプトは「ココニアル」。

ここにあるもので幸せに生きることができなら、どれだけ平和な世界をつくることができるのだろうか。これは現実に描く理想の世界。ココニアルは、コロニアルの対義語。コロニアルとは植民地主義のことで、ほかの土地を侵略して、そこにあるものを支配しようとするのに対してココニアルは、ここにあるものと自分と環境とすべてを同じ目線で協働して理想郷をつくる。そう。ここに理想の暮らし、理想の大地が育ちつつある。していることはアートを超えて社会を作ろうとしているのかもしれない。願わくばアートが社会を飲み込むほどの器であってほしい。