いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

バラバラの飛び散った破片がひとつの糸に貫かれた。

取材が終わった。7月2日から5日間。その前に馬東京での個展の様子も撮影してくれた。密着ではないけれど、集落での草刈りや炭焼きの作業も撮影してくれ、ぼくたち檻之汰鷲の全体像が記録される。

質問されたのが、ランドスケープをつくること、生活芸術のこと、これからのこと。なるほど。ぼくらがしていることの捉え難さが分かった。

インタビューに答えるうちに分かった。まず基本にコラージュがあること。これが背骨になっている。

コラージュとは、紙を切って貼るアート技法だ。それぞれ異なるパーツを貼り合わせて、予想外のイメージをみつける。それはセレンディピティとして説明される。セレンディピティとは、いましていることの中から目的とは違う何かを発見することだ。たぶん、これが分かり難い。していることすべてにこの技術が浸透しているから、掴みにくい。10年以上、もしかしたら20年、このコラージュを追求してきた。今もまだそれをしている。紙を切って貼るコラージュをしていなくても、忘れるほどその思考が日常になっていた。

だから生活芸術になる。生活そのものをつくる活動。日々していること。人間が生きるために必要なモノコトを再編集するコラージュ。身の回りにあるもので生活を再構成してみる。ブリコラージュだ。この言葉をレヴィストロースが「野生の思考」で展開してみせた。予め設計されたものではなく、偶発的に身の回りのものでつくること。例えば、廃材を使うとか、色は青でも赤でも手元にあるので済ますとか。予定や目標よりも、目的を果たすためにあらゆる手段を絞り出す。それは知恵だ。Wisdom. そうやって生活を作っていくなかで、目的とは違う表現を偶然に発見する。それをカタチにする。それは何か。やっぱりコラージュ的なオブジェになる。

生活をつくるとは、生きるために必要なものを整えていくこと。いま暮らしている集落では奇跡的なバランスで自由を手にしている。ここは限界集落で、耕作放棄地や休耕田が多い。持ち主はいるけれど価値はない。だから使わせてくれる。土地がコモンとして解放されている。しかし、それは誰でもすべてではなく、この大地を利用する者に向けて。鍵付きのレイヤー上に桃源郷は存在している。だからその仕組みが見えない。一方通行でしかアクセスできない。

桃源郷の土地は所有者が使用しているところは、何ら変わりはない。所有者が使っている。所有者が放棄したところを協議会が借りて使用している。使用の条件は土地によって違う。花は植えていいけど木はNGもある。とにかくぼくらは、協議会が借りたところを草刈りしている。自分の土地ではないにしろ、鍵付きのレイヤー上では、コモンな大地だから。つまりぼくたちの土地ではないけれどみんなの土地なのだ。これはひとつの社会実験でもある。

自分の生活から見渡す景色環境を整備している。家からはじまり、庭、その周り、と広がれば、集落全体が公園のように感じる。自分の生活だけが整えばいいか、と問えば、見える範囲すべて整えばもっと気持ちいい。他人のものは手を付けない常識は、この桃源郷では解除されている。ルールが上書きされている。社会のルール、地域のルールもコラージュされた。鍵付きのレイヤー上で。それは限界集落という現実と重なって、仮想現実のようだけれど、リアルに存在している。

木はNGの休耕田の草刈りを続けて3年目。そこに来年田んぼが復活する。集落に暮らす人が再開する。仮想現実上の取り組みが現実上に出現したようだ。なるほど。これはとても複雑なことになっている。分かりそうで分からない禅問答みたいだ。

なるほど。展示が終わって、有楽町マルイで作品を販売する活動をした。有楽町に通勤して店舗で販売員を演じた。その役に思考が引っ張られていた。どういう作品を作ったらもっと売れるだろうか、誰が買ってくれるのか、そういう考えに支配されていた。この思考は、ずっと後でいい。セレンディピティから作品が産み落とされ、目の前に現れてから考えればいい。

インタビューのなかで10年後について話した。10年は重要なサイクルで、20代にしたことで30代が進み、30代したことで40代が進み、だから50代したことが60代を進める。

ぼくはまた海外に行くつもりだ。この自分のアートをワールドワイドに伝えたい。生きるための芸術ということ、生活芸術のこと、コラージュが進化した身の回りのものを採取したアート、その活動と環境の関係、アートが環境をつくることについて。これを英語で説明しなければならない。目標ができた。

生活芸術とは、日本的なコンセプトだ。とても。だから、これを岡倉天心の「茶の本」のようにまとめるべきだ。

そしてもっとずっと心の奥の企みだけれど、小説を書く。人間と社会については、オブジェでは表せ切れない。アート作品は開かれていたい。オブジェの存在が全方位に解釈を自由にするように。もしくはタイトルや解説がガイドになるように。

小説は、物語で世界を描写できる。文字で記された言葉が束になって物語が編まれる。言葉がイメージを喚起したとき、空想上の世界がそこにある。その世界は、いまここにある問題を起点に起こるはず、起こり得ない未来を提示する。ユートピアディストピアいずれも。社会を手に負えない巨大なモンスターではなく、手のひらに収まる小さな本のなかに封じ込めて遊んでみたい。

なるほど。現実の集落をアート作品の舞台として、鍵付きのレイヤー上であるにしても、それがカタチになって維持していくその先に、世界そのものを描写してみたいという野望なんだ。

今回のインタビューで、バラバラの飛び散った破片がひとつの糸に貫かれた。その究極の原点は没頭していたい。それだけだ。貫かれた糸で、生きるための芸術をタペストリーになるまで編んでいく。ひとつひとつが、その糸になっている。