いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

日常のなかで忘れている技術

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海を見ると波があって、あれなら乗れそうだとか、あれは大きいとか判断する。実際に海に入ってみると、波の大きさは、遠くから見たのとはまた違っていて、ときには聳える壁のようにも感じることがある。

できないことをできるようにする、という行為には段階があって、そこに「技術」がある。海で波に乗るサーフィンにも技術がある。

波を波として眺めてしまうと、それは大きく感じてしまうこともあるけれど、波というコトバだけでは表せない、その複合的な運動と同化することができれば、波のサイズを感じることなく波の一部になることができる。

できないことに取り組むことで、できるようになることを体験する。その体験のなかで技術というものを獲得していく。

 

友達が薪割りをしている写真をSNSに投稿していた。薪を斧で叩き割っているようだ。そして「難しい」とコメントしていた。その友達はぼくが投稿した薪棚の写真を見て「全部斧で割ったの?」と質問してきた。

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ぼくも薪割りのやり方を知らなかった。木には年輪があって、割れやすい方向がある。枝や節があるところは割れにくい。チェンソーで切れ目を入れて、楔を打ち込んで木を割る方法を炭窯の師匠に教えてもらった。この薪割りは、チェンソーの動力、木に打ち込んだ楔、重力で落ちてくる斧、それらのエネルギーや性質の組み合わせで木を割ることができる。使う力は斧を振り上げる力だけだ。

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草刈りをして景観をつくる活動をしている。はじめる前、どうやって桜の苗を育てていけばいいのか不安だった。しかし始まってしまえば、桜は育っていくし、草が絡まって折られてしまうこもあるけれど、そうならないように対策をする知識が身についていく。どれだけ草が伸びると草刈り作業の効率が悪くなるのか、そんな計算もできるようになった。初めて草刈り機を触って恐る恐る草を刈っていた初期に比べたら、ここにも何かしらか技術の蓄積がある。

 

景色を作って、それを絵にするという循環になって、来年の春に向けて、耕作放棄の草刈りをして準備をしている。現実をつくり、その現実を絵にする。それは世界そのものを創造することでもある。「世界を創造する」とはまるで大袈裟なようだけれど、人間は常に目の前の世界を作っている。けれども、メディアの向こう側ばかりを気にしていると、目の前の世界から自分が不在になって、ほんらい創造できるはずの世界は、何もされないまま流されて過ぎ去っていく。それは生きる時間そのものを捨てていることでもある。

 

いま咲いているコスモスの花の絵を描く準備をしている。木材を加工してパネル、額、下絵をつくる。ぼくが木工をやって、妻が絵を描く。妻の色の塗り方や調色には、どこかから学んだ訳でもない、独自に発達したやり方がある。こうして夫婦で作品を一緒につくるということもまた日々の積み重ねで技術が蓄積されていく。

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チフミは畑をやっていて、毎日その畑から採れたての、ナス、オクラ、サンドマメ、ししとう、だいこんの葉っぱを食べている。その料理は、身の回りにある野菜を調理した名前のない食べ物で、炒めたり煮たり、茹でたり、味付けはその時々で変わっていく。お米は近所のひとが作ったのを分けてくれるので、それをいつも食べている。味噌もそうだ。そうやって作られる食事が美味しいということにも、生活をつくるという取り組みの積み重ねがある。

 

生きるための技術は、日常のなかに埋没していて、当たり前に存在しているそのことをつい忘れてしまいがちになる。ぼくにとっての当たり前は、誰かにとっては特別なことでもあるし、どうでもよかったりもする。誰かの当たり前がぼくにとっての特別なこともある。そうした日々の些細なことの素晴らしさをどうしたらいつも輝かせておけるのだろうか、とこれを書きながら考えている。たぶん、生きるということに関して必要な物事は既に揃っているのに、どういう訳か社会の方が、それではダメだ、もっともっとと要求してくるのだと思う。その社会という存在がすべてを複雑化させている。だからぼくは本を読んでその複雑なものを理解しようとする。

 

ぼくたち夫婦の生きることに関しては、とても単純化されてるのだけれど、それでも日常のなかにいると、その実は単純なことが見えなくなって、上手く波に乗れないように、社会に翻弄されてしまう。だから、いつも基本に戻るために文章を書いている。生活という生きるために必要な活動を自分の暮らしのなかに取り戻したとき、毎日の生活のなかにリズムが生まれる。生活とは自然の営みを活用することで、やるほどにシンプルになっていく。その流れに身を任せて生きていけばそれでいい、そんな気持ちを維持できないのだろうか。やってみようと思う。