いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

次の展開へ。

次の展開へと移り変わる時期にいる。そう感じている。10年前にライフスタイルをつくると芸術家を目指して、今現在は、芸術家として暮らしている。それがどう評価されるのかは別の話として、とりあえず夢は叶い、それをして日々を生きている。

明日、明後日と講義の仕事で別々の内容で2日に亘って話をする。ひとつは、コラージュという技術を軸にアート活動の話をする。もうひとつは、地方に拠点をつくって活動することについて話す。

これまで生活そのものをアートにするという取り組みをしてきた。そのなかから作品を生み出してきた。ひとつの技術を繰り返しやるよりも、偶然に遭遇した技術をその都度利用して制作してきた。だから、どれも技術的には優れていない。優れてはいないのだけれど、それでも評価できる何かが作品に宿ったとき、その作品はよくできていると感じるときがある。いつまで見られるようなカタチをつくると惚れ惚れする。自己満足なのかもしれない。でも、まずは自分が納得して、それを誰かに見せたとき100人にひとりでも、そこから何かを感じてくれれば、その作品は確かに自分の傑作のひとつに数えることができる。

そんなことでいいのか。とも思う。でもその答えは自分が出すことではない。だから、また新たな表現の模索に向かっていく。

ぼくは画家ではない。絵を描いてはいない。絵を作っている。この説明ほど明確なことはない。ぼくは何かのカタチを作っている。それは確かだ。

生活を作った。これはとても重要なことで、表現者がどこからやってきて、何処へいくのか、自分自身も含めて、手掛けた作品についても理解していることは当然の義務だ。この時代に。何処でも売っているモノを買ってきて、組み合わせてやがてそのモノがどうなっていくのか、その循環に自覚がないなら、それはモノづくりと向き合っているとは言えない。何しろ時代はこれから22世紀に向かっていく。今までと同じ態度とやり方で何を表現したと宣言できるのか。

ランドスケープアートに取り組んでいる。北茨城市里山の景観をつくっている。大地と自然を相手にしている。これほど充実した制作はない。空、空気、木々、土、植物、それらの合奏を指揮するようだ。何もアートっぽいところはない。ただの景色。しかし、それこそが美しいと感じるなら、それで充分だ。ぼくたち夫婦は黒子でいい。優れていなくても構わない。むしろすぐに理解されるよりも、誰にも気付かれないレベルで進行して、あるときに成果が開花する。それまでの間、ぼくは表現活動を継続できればいい。表現活動を継続するとは、それをやりたいようにできる環境があるということ。食べ物があって、寒さをしのぐ家があって、悩みにならない程度のお金があって、それだけの収入になる仕事があって、そういう環境があれば、表現は次から次へと生まれてくる。その環境がとりあえず、いまはここにある。

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森に木を見に行った。いま暮らしている家の周りは小さな山に囲まれていて、小さいから名前もない。けれどもずっと広がっている。そこには森がある。森。木々が溢れるこのフィールドで何かできそうだ。

表現が生まれるままに解放したい。ギャラリーや美術館に展示するためにとかは考えたくない。それは結果だ。収蔵しなければならないほどの何かを作ればそういう結果になる。だからと言って、アイディアをそこに収めてしまったらアートじゃない。

やりたいことは、自然が相手だからすぐには結果を返してくれない。ひとつずつ、一手ずつ制作を重ねて、自分のアートを極めていきたい。それを確認するためにこれを書いているんだろう。