いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

映像による生きるための芸術の記録

アクションカメラを買って動画を撮影している。毎日していることを記録しようとしている。時代はすごい速さで変わっている。文字と映像では伝わる量とダイレクトさが違う。実際にやってみてそう感じた。けれども文字というメディアがなくなることはない。文字が発明されたそのときから人類の発展に貢献してきた。イメージすることは映像に繋がる。しかし思考することは言語の仕事だ。こうして自分と対話するのも文字の仕事。

映像に触れて「コトバ」というモノとの接し方が少し変わった。自分がしていることのひとつに「詩」があることに気が付いた。10代の終わりにバンドでオリジナル曲をつくって詩をつけた。メロディーはなくてコトバが先に生まれた。そこに自分の原点がある。

詩はコトバの結晶だ。最小限のコトバで多層的な意味を描き出す。映像に少しだけ文字を添えると映画のようになる。テキストが字幕を演じて物語の世界へ導く。

生活をつくるという活動をして、ぼくの世界は空想も現実も同じレイヤーにある。理想を絵画に描くように現実世界をつくる。現実世界を美しくする努力をしないで、どうやってよりよい社会をつくることができるのだろうか。それを表現者たちがやらないで誰がやるのだろうか。

一日輝く
今一瞬
テクノロジーの進歩を感じた。Youtubeに映像をアップするときにテロップを付けられるらしい。そのテキストを多言語に翻訳してくれるそうだ。ぼくが勘違いしていなければ。だとすると短いテキストを映像に添えれば、そのコトバは世界中に響かせることができる。日本語のひとことが、英語中国語スペイン語アラビア語に変換される。それはバベルの克服だ。

人間は神へと近づこうとして天にも届こうとする塔を建設して、神の怒りに触れ、コトバをばらばらにされてしまった。もしYoutubeに添えたテキストが多言語翻訳してくれるのなら生きるための芸術という活動の記録は、新しいフェーズに突入する。映像がしてくれる仕事があって、文字はもっと文字にしかできない仕事に没頭できる。いま編集した映像を動画ファイルに書き出ししている。今しているやり方であれば、毎日していることがそのままコンテンツになる。今日は炭焼きをした。昨日は土手のふきのとうを採って天ぷらにして食べた。明日は桜の木を移し替える。明後日は旗を立てる。ぼくのしている芸術活動は、絵でもないし彫刻でもないし、美術館やギャラリーに展示するためにつくっているのでもなく、現実の今日明日、目の前に広がる世界をつくっている。ぼくはゴーギャンの問いに返答している。その先にぼくの問いをみつけたい。その先とは原始にある。良いも悪いもない、それ以前の例えば水を飲むために器をつくったとき。それは水が飲めれば器だった。美しいとかは問題にもならなかった。人間に一流も二流もなかった。モノは存在し人間は生きていた。そこからやり直すことがぼくの生きるための芸術だ。