いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

モノの始原を求めて

図書館にいくと、宛もなく棚を彷徨って背表紙を見て手に取りページを捲る。また棚に戻して歩き回るうちに、宝物をみつける。興味しかないゾーンに到達する。昨日は民俗学文化人類学の棚がそれだった。

図書館は自分の興味を鏡のように写し出してくれる。人間がしてきた行為、その原点を遡りたい。最近の関心は紙づくりにある。人間が使うモノのすべては自然を利用して作られていた。そのはじまりに優劣はない。使うために「つくる」という行為があって、目的を果たせればそれでいい、そういう自分の感覚を先人の言葉で確かめてみたい。人間とはどのように生きてきたのか。

 

山口昌男ラビリンス」のページを捲ると始原というコトバについての文章をみつけた。アフリカを資源のresouceとして捉えるのが21世紀だったと。そうではなく始原としてのアフリカ。primive、beginningとしてのアフリカだ、と書いてあった。

つまり紙についても同じで、資源としての紙ではなく始原としての紙を探る旅がスタートしようとしている。

 

これはどうしようもないことで一冊の本をはじめから終わりまで読むことができない。ある本から興味あるフレーズをみつけてメモしたら別の本を手に取る。

「作ること 使うこと」オードリクールより。

そもそも人間は環境によって決定されている。家も働き方も、そのための道具も食料も。カタチややり方は若干違っていても、手に入る材料は最低限は同じだから、世界中に似たようなモノとモノの作り方、利用の仕方がある。

そのすべての基本は、生存のためにある。

しかしもうとっくに現代人はその基本からズレている。

 

最近は紙を作りたいと考えていて、知り合いに紙漉きをやっている人を紹介してもらい電話した。開口一番に「楮(こうぞ)から和紙をつくるのは半端なく大変なことだ」と言われた。きっとそうなんだと思う。けれどもよい紙を作ることが目的ではない。紙をつくるという作業に触れることで、その原点を探るのが目的。失敗上等の大歓迎だ。失敗することで紙が作られる複雑さを知る。紙として成立するギリギリを試行錯誤することで原点に立ち会うことができる。という訳で、紙漉きの人に会って話しを聞くことになった。

文化人類学民俗学に惹かれるのは、人間がしてきたことの学問だからだ。ぼくは今、茨城県の端っこに暮らしていて、いわゆる田舎で、時間があるときから止まったような場所にいる。ここからは、時間を遡ることができる。タイムトラベルができる。お年寄りの話を聞いたり、地形や道を辿ることで100年前の暮らしを知る。それさらに辿れば、太古の技術に触れることもできる。

どこか遠くへ行かなくても、目の前に人類の始原に接触できるポイントが埋もれている。今年のはじめに再生した炭窯がそうだった。昭和の遺産のような炭焼きという労働が人類のはじまりの記憶を持つ営みだった。

火、土、水、木、風。

ぼくがアートという表現を利用して明らかにしたいのは、経済的な欲求を満たそうとする以前の領域についてなのだ。商品とモノと生産と消費の循環以前のモノがつくられる現場に立ち会ってみたい。妄想に過ぎないのだとしても、それなら尚のことアートという空想として実体化させてみたい。現在的な意味では、自分のあらゆる活動の成果物として提出するのがアートとしてカタチになっている。それが本であり、絵画であり、オブジェやその他、様々なカタチで結晶化している。それらは意図して作られるよりも、活動の結果として作られたカタチ。それらがモノとしての価値を獲得して、貨幣と交換されることもある。このサイクルも重要で、この接点があるから自分の活動を人にメッセージとして伝えることができる。

こうやってコトバにして気がつくのは、自分が何かの研究をしているということだ。生活をつくるという目的から「モノの始原を求めて」動きはじめている。

借りた本

「作ること 使うこと」オードリクール

山口昌男ラビリンス」

「清閑の暮らし」大岡敏昭

「日本人のくらし 住」秋岡芳夫