いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

檻の中の鳥が大空を羽ばたく自由な鷲になる方法

自分が何をしているのか、何度でも問い直す。毎日確認してもいいのかもしれない。ムスリムのように1日5回、問い直せばいい。なぜなら毎日、寝て起きて、死んで生まれ直している。昨日の想いが、今日へ引き継がれるとは限らないし、明日には忘れているかもしれない。世の中も刻々と変わっていく。今日の正しいことが明日には間違いになっているかもしれない。アメリカ大統領選挙が終わっても、誰が勝利したのか。今日はバイデン、明日はトランプ。選挙という最も民主的な古典的な手法でさえも、信じることができない時代に生きている。何度でも問い直すことでしか、その先を見ることができないと感じる。

本を読むのが好きで、いまは井筒俊彦「意味の深みへ」を少しずつ読んでいる。自分が見ている世界、関わっている世界、それをどう捉えるか、そういうことが書いてある。読んでいると、意味の深みへと言葉を辿って潜っていく。言葉の世界、その奥地へと連れていってくれる。それは読書の快楽だと思う。だから、自分が本をつくるとき、読者をどこかへ連れていくことができているか、改めて自分が書いている本を推敲してみようと思う。

絵を描き始めたとき、文章も書き始めた。本をつくりたい。絵を描きたい。その衝動はひとつだった。何か別世界を表現したかった。けれども、それができるようになるには随分と時間がかかった。未だできていないのだと思う。だからこうして文章を書いている。いつも途中ではじまりも終わりもない。中途なものをアウトプットするしかない。

「意味の深みへ」を読んで納得したのは、ぼくたちがみている世界は、記述されたものでしかないということだ。つまり「ことば」になったものしか捉えることができない。ことばを通じて世界を理解している。

20年前だったら、いまのように多くの人が言葉をこんな風に使っていなかった。いまはSNSとかブログとか、ひとりひとりが文字を使い発信している。動画の時代だと言われているから、新しい感覚が芽生えてきているのかもしれない。それでもやっぱり言葉が世界を作るツールになっている。SNSを見過ぎると、そこを通して世界を理解するようになる。

今月になってから夜は9時ころに寝て、朝5時に起きて作品集の文章を書いている。日本語で書いたものを英語に翻訳して、日本語英語を併記して世界中の知り合いに贈ろうと考えている。翻訳は友達に頼んである。文章を書くとき、誰に届けるかで書き方が変わってくる。今回は、高校生にも伝わるようにしたい。言語が違えば、複雑になるほどニュアンスが変わるし、国が違えば環境も違うし、シンプルにした方が伝わりやすい。

いざやってみると、分かりやすくすることが難しい。難しいことを分かりやすくすることは、難しいことをきちんと理解、整理して、分かりやすい言葉に翻訳する作業だ。本を読むのが好きだから、いつも読んでいる本のまま思考している。だから、分かりやすくすることは、自分に蓄積していることばの世界を読み直す作業でもある。しかも、高校生にも伝わるように。これがとても勉強になっている。

その作業をしているおかげで、自分が何者でどこからやってきて、何処へ向かおうとしているのか、行き先が見えてきた。ぼくは、檻之汰鷲というキャラクターをつくり、社会との関わり方を変えた。芸術家という職業を名乗って、自分自身を作り変えた。妻も檻之汰鷲にすることで、すべての日常を芸術活動へと変えた。

意味の深みはとても複雑だけれど、見えている世界はとてもシンプルで、ことばで分類/整理されている。だから、新しく名前や言葉をつくることは新しい意味を創造することになる。ぼくが「生活芸術」という言葉をつくれば、その意味をコードのように記述する余地が生まれる。その意味を聞かれたとき、相手にその説明を見事にできたとき、その人の中に生活芸術という意味が生まれる。そうやって世界を拡張したいと企んでいる。

檻之汰鷲には「アートの魔法で檻の中の鳥が自由に大空を羽ばたく鷲になる」というメッセージが込められている。A BIRD IN THE CAGE WHICH WILL BE AN EAGLE IN SKY BY ART OF MAGIC.日本語でORIはCAGE。NOTAはINと解釈してWASHIはEAGLE。

つまり、どうしたら人間は、もっと自由に生きることができるのか。それをアートという手法を使って明らかにしようとしている。それを理解するカギは子供にある。世界がことばで分類/整理されるとしたら子供には、どう見えているのだろうか。子供には、分類されない意味の世界が広がっている。理解する言葉が少ないから、意味が重なったりダブったり、大きくなったり小さくなったり、溶けたり揺らいだりしているんだと思う。きっと余白がたくさんある。子供は、石や砂をレストランの食事に変えることができる。泥水をジュースにすることができる。

ぼくは言葉をつくり意味を捏造して、世界を塗り替えようとしている。それは魔法のサングラスのようにアートというフィルターを通して見える世界だけでもマシにしようと企んでいる。必ずしも正解はないし、メディアによっても解釈も伝え方も違う。その点で、今の時代は、意味が揺らいでしまっている。だからまるで石や砂をレストランの食事だから食べろ!と大人たちが争っている。トランプが勝った!あれは嘘だ!もはや「ほんとう」は何処にもない。

だとすれば、それはそれ。あれはあれ。飛んでくる決めつけられた「ことばたち」を無邪気に受け取るしかない。敢えて分類しない。嘘とも本当とも決めない。子供に石や砂をレストランの食事として出されたとき「美味しそうだね。もぐもぐ」と真似るうように。多くの人が、全然バラバラに世界を見ている。それだけ世界を覗く窓があるということでもある。だから自分も、それはそれ、あれはあれとして、自分の世界を記述していく。もちろん自分がつくる世界もまた、バラバラに見ている世界のひとつにしか過ぎない。人にはそうは映らなかったとしても、自分が大空を飛んでいる鷲になれればそれが自由だ。誰かが決めることでも評価することでもない。いまは誰もがことばを操れる時代だから、世界をつくるのは、自分の言葉でしかない。