いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

自然のなかで自由に芸術で生きる。

次の展開への途中にいる。人生を作品にして表現活動をして生きていこうと、定期的に本を出版している。いま手元には3冊目の本の原稿がある。去年の秋ころから書きはじめて、2回の校正をして、ほぼ完成の状態にある。どうやって出版するか考える。作ったモノを世の中に流通させるには、それぞれに仕組みがあって、本なら出版社を経由して書店で販売することだし、絵画であればギャラリーで販売される。けれども、どれにもそれ以外の手段がある。音楽だったら自主制作、インディーズ、DIYと呼ばれる手段がそれだ。3冊目の本は、大手流通を介さないで販売することを考えている。

本の内容はドキュメントで自分が選択した生き方、ライフスタイルをつくることについて書いてある。本を書くことで自分のしていることを理解して、その進むべき先が見えてくる。本を書きながら自分の人生をつくっている。

このブログは、その本の種。起きた出来事をメモしておく。ライフログ。記録していたものはやがて物語になって本にまとめられる。一日とは流れていくばかりの人生を捉える最小単位でもある。今日できることをひとつずつやっていく以外に昨日よりマシな人生をつくる方法はない。

6月のはじめ1年ぶり以上の東京へ行った。コロナウィルスのせいでまったく行けなかった。古くからの友人がついに映画を撮ることになり、その映画のなかに出てくる絵を制作した。画家の主人公の部屋をつくるための壁紙も制作した。

それを撮影現場に設営するために東京に4日間滞在した。映画の設定に合わせた状況をつくる美術さんと一緒に仕事をした。映画の場面をつくることは、完全な嘘をでっちあげるように、もしくは殺人現場のアリバイ工作のように、モノの配置を綿密に計画する仕事で面白かった。すべての映画の場面がそのように作り込まれている。自分がテーマにしている虚構と現実の境目が見れた。美術さんの部屋はやっぱり綺麗なのか質問したら仕事とは別だから、と答えた。このときは言わなかったけれど、そこの境界線を踏み越えたとき日々の暮らしがアートになる。映画のセットのような部屋。それだけで素敵な空間だ。

東京では自主的なコロナ対策で、ほとんど出かけずに部屋に籠って3冊目の本の仕上げた。作ることに没頭できる、その環境が欲しくてずっと格闘していた。気が付けばそれを手にしている。だから次は、本を売るという課題。それをクリアできればもうひとつ欲しかったものを手に入れることができる。自主制作で500冊くらい売れれば、その先、いろんな可能性が見えてくる。出版社に出してもらえるような本を、つまり売れそうな本を書いても、これは売れませんと断れて途方に暮れるよりずっと未来がある。

映画の仕事をクリアして北茨城市に戻ってきていつもの生活に戻った。いつもの生活とは里山の景観をつくりながらアート作品をつくる日々。これも欲しかったもののひとつだ。けれどもアート作品を販売して、それだけで生きていくにはまだ遠い。9月に個展があるから、それに向けてコツコツと制作している。妻は言う「ひとつずつ終わらせていこう」。

ぼくは妻と二人で制作しているから、二人が納得しないと作品は完成しない。作品のクオリティに対する眼差しは厳しくなっていく。ぼくたちは厳密にいえば、絵を描いていない。色とカタチをつくっている。上手いということではなくて、意図を超えた自然な要素がどれだけ発生させられるか。妻もぼくも意図しなかった偶然がそこに起きているか、その手法をいつも開拓している。

朝起きて、紅茶をつくっている。これも個展に出したいと企んでいる。お茶っぱを摘んでつくっている。「身の回りのモノで生きるために必要なモノをつくる」ということを表現したいと考えている。自分のしていることが変な日本語になっていく。でも「身の回りのモノで生きるために必要なモノをつくる」これが生きるための芸術のスローガンだ。

お茶を表現に取り入れるのは、岡倉天心を引用したいからだ。芸術という言葉の意味を調べていたら、芸術という言葉はアートという言葉が輸入されてはじめて訳語としてつくられたと知った。「自由」や「自然」もそうだ。日本語には芸術も自由も自然もなかった。しかしなかった訳じゃない。あったけれど違った認識の仕方をしていた。

岡倉天心は、芸術という言葉が輸入される前の日本人にとっての芸術とは何だったのか、それを「茶道」として西欧に紹介した。それが「茶の本」だ。

個展の裏テーマにこっそりと茶道を忍ばせて、生きるための芸術という領域を描き出したいと考えている。だから「茶入れ」「掛け軸」を制作しようと企んでいる。可能なら紙もつくりたい。ただこれは、展示の仕掛けとしての飛び道具で、中心は絵画作品にある。絵画は分かりやすい。ダイレクトに伝わる。「良い/悪い」は瞬時に判断される。

人生をつくるということは、とても危ういバランスにある。バランスを崩して倒れたときに分かる。実は、たいしたことがないと。社会がぼくたちを不安にさせることの多くは生きることに直接の影響はなかったりする。つまりそれで死ぬということはない。それなのに焦ったり不安になったりする。

ぼくは自然の多い、田舎に自分が暮らす場所をつくって、そこで創作に没頭している。そこから生み出される作品がぼくたち夫婦を活かしてくれるだけの収入になりさえすればいい。そうすれば不安は解消される。永遠に? そんなことはなくて一時的に。だからまた創作に励む。

けれど人間の欲は尽きることなく夢が叶った途端に、当たり前のような顔をして感謝を忘れて何か物足りなく感じるようになり、新たな欲望がぼくのケツを蹴飛ばす。また走り出すことになる。

自然のなかで自由に芸術と共に生きる。明治以前だったら、そんなことはありえなかったんだろう。言葉が存在しなかったのだから。けれど今の時代だったらそれが可能だ。そう言葉で伝えることができるのだから。