いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

自然が裸になるとき/NAKED NATURE

つくること。作品にすること。表現すること。現代社会では、それをお金に変えてはじめて評価される。何千万円で売れた絵画は成功の称号を与えられる。いま人類にとって必要なことは、そういうことなのか、と大真面目に疑問に思う。

したいと感じることをカタチにして、それを記録して足跡を残せば、その先に進む道が見えてくる。その先が何なのかはカタチにして、言葉にしてはじめて理解することができる。ぼくは文章を誰に宛てることもなく書いている。人に対してというより、言葉にならない深層を掘るために書いているのかもしれない。

バリ島の友達から「量子力学に興味ある?二重スリット実験を知っている?」とメッセージが届いた。youtubeの動画説明を送ってくれたのでそれを観た。簡単に言えば「極小の電子の振る舞いは、観測されるか、されないかで結果が変わる」という話だった。なるほどと思って数日が過ぎて、目の前の出来事に当て嵌まって驚いた。もしかしたら自然の振る舞いも観測によって変化しているかもしれない、という予測が頭に浮かんだ。

いま取り組んでいる作品は景観をつくる「桃源郷計画」だ。何もないと言われる、限界集落の自然環境を整備して美しい里山をつくろうとしている。この「何もない」という言葉に注目している。現代社会では田舎を指して「何もない」と表現してしまう。簡単に何もないと切り捨てているところには、何百種という草木、何種類もの動物、何万という虫が存在している。

景観をつくる作品は、この名前を失った里山環境に名前を与えていく作業でもある。簡単に言えば「見所(みどころ)」をつくることだ。何もないと呼ばれている漠然とした全体の中に興味を惹く個所をみつけて、名前をつけて景観にしていく。

ここ数日は、裏山に入って道を整備している。誰も入らなくなった山には、何もないを遥か上回る自然が溢れている。今年の春、この道をみつけて分け入ってはじめて観た光景は新鮮だった。まるで人間に観測されなかったことによって自然が生き生きと振る舞っているようだった。

これは直感でしかないけれど「観測されるか、されないか」によって自然の振る舞いも違うのではないのか。例えば、前人未到、自然の奥地に到達して、それが写真に撮られたときに感じる自然の驚異、これは観測されなかった自然が裸のまま記録されたからではないだろうか。

ぼくが裏山に分け入って目撃したその自然の姿は今はもうない。観測してしまったから。けれども、その驚きを絵に残すことができた。もしかしたら、裸の自然という現象があるのかもしれない。もちろんこれは、観測する側、ぼくの眼差しも裸だからこそ成立する現象だ。

絵を描くことは、目の前の現象の深層をより深く言語を超えて捉える活動だ。

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