いきるための芸術の記録

荒地と廃墟の楽園より

One of these days 2020.5.2

新しい年の4月が終わった。春になって一か月が過ぎた。今年はゴールデンウィークがなくなりそうで、おまけに平日も休日もなくってきた。遠くから足を運ぶ人はいなくなり、毎日、近所の人が遊びに来る。ここ北茨城市にはコロナウィルスは未だ発生しておらず、ぼくが暮らしている山間部は、まるで疎開しているように、この閉じられた地域では、コロナ以前には失われていた人と人の交流が再生している。

 

10年前に芸術家として起業して、それを職業として生きていく方法を模索してきた。貧することを恐れずに、やりたいことを最優先してきた。とにかく制作すること。モノをカタチにすること。水のように低いところへ流れていくこと。水になることは、芸術をして高みを目指すのではなく、より日常の、芸術とは縁のないようところで、芸術を役立たせることで、そのような状況下で、芸術がどんな働きをするのか、確かめてみる、そういう企みだった。だから、ぼくは芸術は携えて、北茨城市の山間部で暮らしのアートを試みている。

それは美しさの探究でもある。ぼくが妻と描く絵は、自然をモチーフにすることが多い。都市に溢れるイメージをモチーフにすることはときに盗作になるけれど、自然が醸し出すイメージをモチーフにすることは、誰にも咎められることはない。

自然の色とカタチをトレースして、美術品と呼ばれるモノを制作しようとしている。貨幣を美術品に変換する作業をしている。貨幣はときに悪徳と手を結ぶ。貨幣を美術品に変換することは、悪を美に変換する現実社会での抵抗でもある。その作業の先に見えてきたヴィジョンが、自然そのものを芸術作品として提示してみせることだった。

 

現在的には、自然を鑑賞する行為は観光というジャンルに分類される。その観光そのものも比較的に新しい活動で、日本であればお伊勢参りがその原型で、そもそも庶民には観光などする余裕はなかった。交通の手段も少なかった。今のように誰でも移動できるようになったのはここ数十年のことだ。コロナウィルスが、社会機能をレイドバックさせ、人々を小さな世界に隔離していることは興味深い。

観光を成立させるには、それができる環境を整える必要がある。そしてこのフレームが美しい自然ですよ、と案内してやることで、より観光の精度は高くなっていく。その作業を経なければ、それはサービスとして認識されず、観光というジャンルには組み込まれない。それは額に嵌めて物語られる絵画と同じ構造をしている。構造=フレームは至るところに転化できて、常にフレームからはみ出していく余地がある。それは意味を持たないと検証ないまま切り捨てられたり、そのまま放置されている。実は、このはみ出していく余剰にこそ新たな意味を創出する余地がある。

 

「自然」という言葉を説明なしで使うことでは何を指しているのか伝え切れない。常に言葉は、暗黙の了解として伝えられる領域と、新たに定義を必要とする余地がある。なぜなら言葉は常に意味を変え続けているからだ。

多くの人が触れている自然は、ほとんどの場合、人間が手を入れて整えた領域でしかない。意味を了解できる範囲でコトを済まそうとすれば、そこから逸脱することはかえって混乱を招く。でもここでは、新たな意味を見つけるために言葉の奥へと分け入る。自然、生活、芸術、それぞれの言葉をアップデートさせたい。

 

自然のままの自然は、手付かずの未開ルートを開拓する登山家や、未だ生活圏ではない山奥を切り拓き生活をつくってきた先祖たちのような一部の人が踏み込んできた、とても限定的な領域だと言える。そもそも、自然は楽しむような類の存在ではなかった。そもそも人間は自然のなかでその命を育み、どうにも手に負えないその脅威に振り回され、ときに自然に殺された。現代人は、その自然という存在を克服しコントロールしようとしてきた。

 

ぼくが活動の拠点にしている茨城県北茨城市の小さな山間部の集落は、自然に囲まれた環境のなかに人の暮らしが営まれている。この場所にいると、社会と自然の境界線に生きている実感がする。この地域の自然は、開拓され住みやすくデザインされている。しかし、その何百年前のデザインのまま現在に至る。それほどに開拓されていない。

毎日ように遊びに来るお年寄りの話しを聞くと、いかにこの場所で生きるの難しく、自然を相手に格闘してきたかを窺い知ることができる。

例えば、木を伐採していて、倒れてきた幹が喉に刺さって死んでしまった人のことや、家屋が火事で全焼することや、コミネさまと呼ばれる坂の途中にある神社は、その小屋をガタガタと鳴らして休憩する人を驚かせたとか、せまい地域のなかで起きる色恋沙汰のトラブル、生まれについて回る差別、土地の争奪、十数キロも徒歩で学校に通うから途中で山に入ってしまう子供たち、春には山菜がたくさん採れる場所の守秘など、ひと昔前に置き忘れてきたような物語が、毎日、ぼくの目の前で語られている。これらのストーリーは、閉じられた山間部で人と人が生きるためにしてきたあらゆる努力の結晶でもあり、狭い閉じた地域での摩擦が引き起こす現象の数々でもある。

ぼくは北茨城市に暮らすようになって生活の芸術を実践するなかで、景観をつくるアートという可能性をこの地域にみつけ、この地域に暮らすことにした。

この作品を成立させる大切な要素をこれを書きながらみつけた。それは物語だ。

ゴミを片付け廃墟を再生したことも景観をつくるひとつだし、地域の人たちの話を聞いて、どんな暮らしが営まれてきたのかを記録することもその要素になるし、けれども、結果だけを提示するのではなく、そこに日々刻まれている想いや出来事が、作品の細部を輝かせる。

 

ぼくはこうして文章を書きながら考える。日々の出来事を掘り起こして、タネを撒く。そして今、していることの意味を知る。それらすべてが物語になる。

 

この地域に引っ越して暮らすにあたり、北茨城市の職員の方々が、この地域の景観をつくるアート活動が継続できるようにと、地域支援員という仕事を割り当ててくれた。いましている現在進行形の活動を、これから継続していく桃源郷づくりを仕事として認めてくれた。

この新しい仕事は、その仕事の意義を導きだすことでもある。土地と暮らしを再生するアートでもある。この土地に新たなた物語をつくる活動でもある。

コロナウィルスで、どこにも行けないし、人も訪れないけれど、3年前から、このような環境を作ろうとしてきて、いまは目の前のことに集中できる貴重な時間がある。誰にも気がつかれないまま10年、20年と続くような仕事がまだ始まったばかりで、登山の未踏ルートを開拓するような、けれどもとても小さな見えない大切なものを掘り起こす作業にやっと着手したように思う。その想いを忘れないためにここに書いておく。